第五随筆集 書物の心 福永武彦 目 次   ㈵  夏の悲しみ  川端康成氏のノーベル賞受賞  「雪国」読後  江戸川乱歩の思い出  中村真一郎とカツ丼  フロイトと私  手紙について  渡辺一夫先生の一面  私の揺籃  ロートレアモン周辺  鴎外のルビ  古代人の想像力  鴎外全集  プルースト百年祭  マチネの亡霊  学者の幸福  等身大  モリエールの訳者  源氏物語と小説家  川端康成の文芸時評   ㈼  梅崎春生  夢野久作頌  惜命  荷風の道  或る友情の形見  我が立原  内田百  詩人哲学者  詩の愉しみ  鏡花の美   ㈽  花田清輝「復興期の精神」  ボーヴォワール「招かれた女」  「アポリネール詩集」  ジュリアン・グリーン「真夜中」  「リルケ書簡集」  河上徹太郎「私の詩と真実」  モーリヤック「ガリガイ」  三島由紀夫「潮騒」  ジュリアン・グリーン「四角関係」  中村真一郎「冷たい天使」  石川淳「虹」  曾野綾子「遠来の客たち」  室生犀星「随筆女ひと」  加藤周一「ある旅行者の思想」  ヴァルジンスキー「死者の国へ」  グラック「アルゴオルの城」  桂芳久「海鳴りの遠くより」  室生犀星「誰が屋根の下」  「定本蒲原有明全詩集」  梅崎春生「つむじ風」  「ロートレアモン全集」  神西清「灰色の眼の女」  石川淳「諸国畸人伝」  室生犀星「杏っ子」  井上靖「天平の甍」  松本清張「眼の壁」  伊藤信吉「高村光太郎」  矢内原伊作「芸術家との対話」  サド「悲惨物語」  室生犀星「我が愛する詩人の伝記」  瀧口修造「幻想画家論」  石川淳「霊薬十二神丹」  佐藤春夫「日本の風景」  森有正「流れのほとりにて」  室生犀星「かげろふの日記遺文」  谷崎潤一郎「夢の浮橋」  白井浩司「小説の変貌」  「芥川龍之介遺墨」  室生犀星「黄金の針」  「ゴーガン」  寺田透「作家論集・理智と情念・下」  「ポポル・ヴフ」  フランクフォート「古代オリエント文明の誕生」  フェリックス・クレー「パウル・クレー」  安東次男「澱河歌の周辺」  串田孫一「北海道の旅」  「萬鐵五郎・小出楢重・古賀春江」  中村真一郎「戦後文学の回想」  辻邦生「廻廊にて」  川端康成「美しさと哀しみと」  安東次男「芸術の表情」  粟津則雄「ルドン」  吉田秀和「現代の演奏」  中村真一郎「私の百章 回想と意見」  「ボナール画集」  加藤周一「羊の歌」  中村真一郎「金の魚」  内田百「残夢三昧」  埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」    掲載紙誌一覧    後記 [#改ページ]   ㈵    夏の悲しみ  夏に因んだ詩を一篇選び、そこに感想をつけよという、まるで学生時代の試験問題のようなものを出されて、思いつくままにマラルメの「夏の悲しみ」を選ぶことにしたが、翻訳に手間取った上に、その翻訳がいっこうに仕上らないので、書く前からもうくたびれている。夏は怠惰の季節である。  人には一般に夏型と冬型とがあるらしい。好き嫌いではなく、その人が張り切る季節のことだ。私の識る限り、冬型の最たるものは高村光太郎だった。大学を出て初めて就職した頃、私は高村さんのところにしげしげ通う機会があったが、厳寒というのに高村さんは白い上っ張りのようなものを着込んだだけで元気旺盛だった。私は青年のくせに冬の間は冬眠を自称していて、高村さんから大いに嗤われた。高村さんは夏は駄目だと言われていたが、夏でも暑すぎれば仕事にならないのは当り前だし、それに冬型の高村さんでも、夏の間は仕事を廃したなどという証拠はまったくない。  マラルメというフランスの詩人は大の寒がり屋で、襟巻をしている写真が有名だが、そのことと冬型であることとは格別矛盾しないだろう。季節感というのは日本人の専売特許の感があるが、マラルメは難解な詩人だと言われていても、微妙な季節感を持っていたことは疑えない。そこでこの「夏の悲しみ」を読んでほしい。   太陽は砂にそそいで、おお眠りこけた闘士の女よ、   お前の髪の黄金のうちにものうい温湯《いでゆ》を熱し、   お前のままならぬ頬の上に香《こう》を焚きしめ、   恋のみだらな飲物に、涙を混ぜ合せている。   この白い「焔」の不動の熱気がお前を悲しませ、   お前にこう言わせたのだ、おお何と臆病な私の接吻、   「私たちは決して一体のミイラと化すことはないでしょう、   古代の沙漠の、幸福な棕櫚の木のもとに!」   それでもお前の髪は一つの暖かな河の流れ、   そこに身顫いもなく我々に附き纏う魂を溺れさせることも、   そこにお前の知らないあの「虚無」を探し出すことも!   私はお前の目蓋の滴《しずく》に濡れた化粧を味わうだろう、   それが蒼空と石との身じろぎもせぬ無感覚を、   お前の打ち砕いたこの心に与えられるかどうか、知るために。  このソネットは一八六四年迄には書かれていて、その初稿と一八六六年発表の「現代高踏詩集」所載の再稿とではだいぶ違っている。(再稿と決定稿とは殆ど違わない。)しかし右の年代はマラルメの二十二歳と二十四歳とに当るから、いずれにしても青年の作だと言えよう。もっともマラルメの作品は、青年時代に書かれたからと言って軽々しく扱うわけにはいかない。  この恋愛詩はボードレールの影響があちらこちらに見られて、それをあげつらうことは簡単である。そのためにこの詩の評価が低いということはあるが、私はそうは思わない。どのような言葉を借りて来ても、思想が違えば出来上ったものは別である。私はボードレールの「秋の歌」が意識的に模倣されていると思うが、ここでマラルメが歌うのは恋愛による救済ではない。  砂浜に白く輝く太陽に照されて、二人の男女が横たわっている。女は泣きながらいつのまにか眠ってしまった。男は覚醒した意識を保ちながら、この恋愛が決して成就しないことを知っている。たとえ心がこの恋に打ち砕かれたとしても、男は既に「虚無」を知っているし、また「虚無」の上にしか陶酔がないことを知っている。そして詩人は、この後も、死ぬまで、「虚無」の上に陶酔を定着する仕事を続けて行くだろう。  この詩が美しいのは、夏の感覚が思想と重なり合って描き出されている点だろう。天には理想の蒼空があり、そこには敵意を持った太陽が輝いている。地上には非情の石の群。その天地の間に、万象は詩人をのぞいて(恋人までも)まどろんでいる。「眠りこけた闘士の女」という呼び掛けは勿論女にかかるのだが、マラルメ独特の二重イメージによって太陽をも併せ示している。そして「白い焔」の熱気が女の皮膚の上からすべての水分を蒸発させて行く。しかし二人は決して「一体のミイラ」と化すことはない。なぜならば男はいつも醒めていてこの恋に前後不覚になることはないだろうし、女もそのことはよく知っているからだ。それが「夏の悲しみ」である。  夏は謂わば明るく陽気な季節である。それを踏まえた上でのこの発想は、マラルメの才能を示すに足ると私は考えたい。 [#地付き](昭和四十三年七月)     川端康成氏のノーベル賞受賞  川端康成氏がノーベル文学賞を受けられたというニュースは、すべての日本人にとっての吉報であり、とりわけ文学にたずさわっている我々にとってはこの上もない悦びである。そして日ごろ川端さんの書かれるものに親しんでいる読者として見れば、むしろ当然のことのような気がする。  川端康成という小説家は、我が国に於ても、最も日本的な作家、ということは伝統の上に立って日本的情緒を表現することに巧みな作家であるように、思われている。とすればノーベル賞委員会が、川端さんの作品の中に、西洋の文学には見られないエクゾチックなものを発見して、その地域的特殊性に感嘆したということも、考えられないわけではない。 「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい。」敗戦後の焦土にあって、こういう決意を固めた作家の書くものが、日本人にしか分らない特殊の心情を、特殊の感覚を、表しているのは当然であろう。しかしその特殊性は、日本人であると共に東洋人であり、東洋人であると共に人間であることの、悲しみや美しさに通じている。川端さんは「私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じてゐる。」と書いたことがあった。また、「西洋の近代文学の洗礼を受け、自分でも真似ごとを試みたが、根が東洋人である私は、十五年も前から自分の行方を見失つた時はなかつたのである。」この文章は昭和九年に書かれているから、十五年前というと、二十一歳で高等学校の雑誌に処女作を書いた年である。そもそもの初めから、川端さんの文学は、無為寂滅のニルヴァーナの世界へ向けて歩みつづけていた。それは西洋の芸術家たちが、例えば詩人ヘッセが、音楽家マーラーが、画家ルドンが、憧れたことのあるものである。  しかし川端康成という小説家は、必ずしも日本的とばかりは限らない。川端さんが「真似ごと」と自ら呼んだ西洋の影響は、いつのまにか血肉の一部をなしてしまった。新感覚派時代に、多くの作家たちが絢爛奇矯な文章の渦に呑みこまれた。しかし川端さんはそれを泳ぎ切り、超自然的な描写や、自動記述的なリズムや、意識の流れの手法などを身につけてしまった。多くのハイカラなものの中から、身に合ったものだけを選び取った。「みづうみ」や「眠れる美女」には、日本古典から学んだ文体だけでは収《おさま》りきれないものがある。「千羽鶴」や「古都」にしても、西洋の文学とはまったく別の道を、それこそ東方の古典にしか通じない道を、歩んでいるように見えて、意外に現代の最尖端の文学の道と相交わっているようである。  川端さんの芸術は、私の見るところでは主観的な芸術、深層心理の小説である。今年のノーベル文学賞の候補には、サミュエル・ベケットやギュンター・グラースが並んだらしいが、まるで違った作風でありながら、この三人には共通して人間の魂の深部へ測深器を投げ入れるようなところがある。今ではリアリズムなどという十九世紀的概念はすっかり崩壊して、我々は主観的に構築された外界と、客観的に溶解した内部とを持つのみだが、川端さんの作り上げた世界は、それがどんなに風俗で裏打ちされ、俳諧的感覚で装《よそお》われ、正確な観察で捉えられていても、あたかも仏典の中のさまざまの挿話が仏陀の教えに導かれて行くように、川端さんの思想と無関係ではない。そしてこの思想は、あらゆる美的、頽廃的、虚無的なものを含めて、やはり思想と呼ぶほかはない。  川端さんの文学に、思想を持ち出すのは、私がことさら異を立てると思われるかもしれない。ではそれを世界観と言い直してもいい。そしてそれは、我々が普通に言うような、つまり西洋哲学的な思想や世界観ではない。私は川端さんの特徴を「受身」の文学というふうに考えている。文法の受動態のこと、愛スル、愛サレル、の愛サレルの方である。川端さんの小説のどの一つを取っても、小説的世界は向うの方から川端さんの中に滲透して来る。川端さんはその世界に身をまかせて行く。「私は風の来るにつれ、水の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた。私は常にむしろ自分を失ひたいと思ひつつ、失ひきれぬものもあつた。」これは前と同じ昭和九年の文章である。このような態度はその後も同じであり、一層強められて来たように思う。人生に処する態度として書かれた文章だが、小説的世界との関係としてこれを読むことも出来る。そして身をまかせたまま内部に深く沈んで行く時に、川端さんがそこに見出すものは死と生との幽明の界《さかい》であり、この世のものでない美であり、人間の永遠の孤独である。とすれば、それは最早、単に日本人のみの味わう特殊な心情というものではあるまい。私が思想と言い世界観と言ったのも、その意味に於てである。 [#地付き](昭和四十三年十月)     「雪国」読後 「雪国」は川端康成の代表作であり、また如何にも川端さんらしい小説には違いないが、惜しむらくは未完のようである。葉子が気がちがったあとでどうなるのかは書いてない。およそ未完の小説が作者存命のうちから傑作として知られるということは他にあまり例がない。しかし川端さんの場合には、寧ろ未完であるから傑作なのだと、逆説のようなことを言ってもおかしくないものがある。 「雪国」は昭和十年から十二年にかけて、色々な雑誌に短篇小説の形で発表された。「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」「物語」「徒労」「萱の花」「火の枕」「手毬歌」というのがそれぞれの題名で、書き下しの部分を加えて昭和十二年に創元社から上梓された。そのあと昭和十五年と十六年とに「雪中火事」と「天の河」の二章が書かれ、戦後に「雪国抄」「続雪国」の題名下にまた書き直されて、現在のような形に纏められた。それでもまだ確実に終ったとは言い切れない。元版川端康成全集第六巻のあとがきに、「したがつて私にはこの作品の終つた後に、島村は再び来ず、気の狂つた葉子を抱へて生きる駒子の姿が、彷彿と浮んでゐるわけである。」と作者は書いている。  しかし実を言うと、これは川端さんの巧みな詐術ではないだろうか。我が国の王朝の物語作者は、省筆によって場面や心理に陰翳を加え、書かないことによって書かれた以上の効果をあげる暗示的手法を知っていた。川端さんもまたその伝統の上に立ち、美は暗示的、象徴的なものであると思われているらしい。雑誌に分載された「雪国」の各章は、その一つ一つが独立した形を持ってはいたが、初めもぼやけ後もぼやけて、まるでその舞台にだけ照明が当って他は薄明のなかに溶け込んでしまったかのように書かれていた。しかも単行本に収める際に、書き足すよりは寧ろ多くが削られて、照明をより明るくするということはなかった。例えば主人公の島村にしても、これは一種の幽霊のような存在で、感覚のほかは殆ど全部が闇の中に掻き消されてしまっている。島村はただ駒子や葉子を写す鏡にすぎない。しかしそのために女たちに当てられた照明は、くっきりと女の業、その美しさ、その哀れさを照し出している。 「雪国」の舞台が越後の湯沢温泉であることは作者自身が認めている。原作の舞台を探ろうとするのは近頃の悪しき流行で、歳月は既に作者の遊んだ時から多くの風物を変えてしまっただろう。しかし仮に同じだとしても、作品は実際とは違ったものを、或る雪国の或る温泉場の情緒を、描こうとした筈である。駒子のモデルにしても同じで、作者自身、「私は実在の人をわざとちがへて書いたところが多い。顔形など似もつかぬ。」と説明している。およそこの小説ほど、モデルの舞台とか人物とかいうものと、無関係な作品も少いだろう。この「雪国」はまさに川端さんの心象の中に、浮んだり消えたりした幻というにすぎないのである。 [#地付き](昭和四十四年四月)     江戸川乱歩の思い出      1  江戸川乱歩は既に文学史上の人物と見なされているから、乱歩の作品についての思い出を語るとすればそれは語り手の年齢を告白するに等しい。例えば私の場合だが、私は小学生から中学生にかけて「蜘蛛男」や「黄金仮面」などという連載小説を、新本屋の店頭で欠かさず立ち読みし、およそその立ち読みの数分間に(それとも数十分は続いただろうか、殆ど時間は飛ぶが如くに過ぎ去ったと言っても言い過ぎではない)、それ以外の日常生活では決して味わうことの出来ない超現実的な刺戟を感じていた。断っておけば私はそのような通俗雑誌をあちらこちら読み漁るほど図太くはなかったし、またその新本屋の主人はいつも怖い顔をして店の中を睨んでいたから、私は素早く目次面を開いて必要な頁を見出し、乱歩の作品だけを読むとすぐさま逃げ出したものだ。それも一度には読み切れず、二度や三度にわけて読んだことさえある。従って私がそのような秘密な悦びを感じるのは乱歩の作品に限られていて、この偸《ぬす》み読みの興奮は次の雑誌が出るまでの一月間、充分に持続していた。私はその間に空想を逞しゅうして筋の続き具合をあれこれと考えた。それほどまでに私を興奮させた作品が通俗雑誌にはもとより、親から与えられる謂わゆる純文学の作品にもなかったとすれば、江戸川乱歩には必ずや特殊の魅力があった筈である。何も子供が立ち読みをしたせいで印象が深いと言っただけのことではあるまい。  私は江戸川乱歩の作品に関して、戦前に、それまでの殆どすべての作品を読んでいたという自信があるが、それは勿論立ち読みだけで済ませたわけではない。そして私は乱歩の作品が子供むきだと言うつもりも勿論ないのである。但し私は乱歩が特に少年雑誌に書いた作品は一つも読んでいない。残念ながら、と私が附け足したとしても誇張ではない筈だ。私は乱歩がそうしたものを書き出した頃には、ちょっとばかり大きくなりすぎていて、もう店頭で少年雑誌を立ち読みするわけにはいかなかった。その点でも年齢が知れるというものである。  江戸川乱歩の功績は、本格的な謎解きの推理を我が国に齎したことだと言われている。「二銭銅貨」や「心理試験」の妙味は、繰返し読んでもやはり読者を飽きさせないものを持っている。しかしそうした短篇だけが傑作なので、「孤島の鬼」を境目にして、「蜘蛛男」のあたりからあと続々と生れる明智小五郎を名探偵とする長篇小説はすべて単なる通俗小説だという意見には、俄に賛同しがたいような気がする。私はこれらの長篇を最近読み返したわけではなく、或いは記憶が美化したのかもしれないから、以下はごく大ざっぱな意見だと思ってもらいたい。  江戸川乱歩には極めて明かな二重性があり、その一つは理づめで行く推理力で、暗号解読とか論理的展開とか心理的洞察とかいう点に現れている。コナン・ドイルの創り出したシャーロック・ホウムズの線である。(ポオのデュパンの線と言いたいけれども、論理力の展開では明智小五郎はどう見てもデュパン探偵の比ではない。)作者自身に即して言えば彼の学者的な面で、戦後の「幻影城」二冊はその証拠のようなものである。もう一つは暗くて無気味な、残虐なものへの前味といった雰囲気である。これはモーリス・ルブランの創り出した怪盗ルパンの線で、それも「三十棺桶島」などを例にあげたらいいだろう。実際にあり得ない筈の悪夢、日常感覚では測り知れない超現実、見世物の八幡の藪知らずで道に迷った印象、そういったものである。このホウムズとルパンとが混り合って出来上ったのが乱歩の長篇小説だが、考えてみるとルブランも作中にホウムズをもじった名探偵ショルムスなどを登場させたのだから、明智小五郎をしてルパンと渡り合わせるような人を食った筋書は、ルブランからの借用と言えるかもしれない。ただその場合にも、モーリス・ルブランのがさがさした文章と異り(もっともルブランの文体には変に熱っぽい魅力があり、フランス的な明晰さを欠いてはいないが味に乏しい)、日本的な隠微なじめじめした文章で書かれていて、そこに風土的な陰にこもった怖さが加わり、一種独特の世界を築き上げて行く。しかし乱歩の作品が、初めから終りまでそうした文体で統一されているのではない。そこのところが実にルブランなどと比較にならない腕前なのだが、全体はちゃんとした推理仕立で、アレグロの文体で巧妙に展開して行くのに、時々作者が立ち止ると、そこから超現実の場面がアダジオで展開するのである。「人間豹」だったか「妖虫」だったか、殺人場面を覗いて見ている男の眼に肉体の一部分だけが拡大されて見え、それと同時に姿の見えない犯人の歌う子守唄だか浪花節だかが聞えて来る箇所があった。こういう暗示的な手法が作品全体の快適なテンポの中で効果的に用いられている。「陰獣」とか未完の「悪霊」とかは、そのようなアダジオの部分だけで書こうとしたもののような気がするし、そうした暗いじめじめした文体は、作者が宇野浩二に学んだものではないかとも思うが、よく調べてみなければ断定は出来ない。しかし語り口に宇野浩二とどこやら似たものがあることは否定できないだろう(因に「人間豹」の発想はそのまま宇野浩二にある)。  私は残虐なものへの前味という言葉を使ったが、乱歩の意図するものはあくまでも前味であって味そのものではない。そこに乱歩の残虐趣味の特徴があるような気がする。常に一種の暗示の域でとどまり、場面全体を露骨に描写しようとはしない。どんな残虐な場面でも、煌々たる照明に照し出されることはなく、いつも薄暗い闇の中に一部分だけかすかな光が当っていて、それによって他の部分を類推させる。つまり魑魅魍魎《ちみもうりよう》をつくり出すのは読者の方の想像力で、作者はそのための影を上手に操っているにすぎない。その点乱歩は心情のロマンチストである以上に、節制のある古典主義者であるとも言える。彼の内部には、恐らくさまざまの妖異、怪奇、凄惨を含んだ美がうごめいていたに違いない。しかし彼はそれを暗示的にしか描かなかった。超現実は単なる作者の説明や描写だけで描き切れるものでないことを、彼はよく知っていたようである。  そのことには人柄ということもあるかもしれない。乱歩は下品なことは書かなかった。加えるに戦前の検閲制度がかえって幸いしていたと考えることも出来るだろう。戦前の総合雑誌は創作欄までやたらに伏字があって、たしか「石榴《ざくろ》」なんかは伏字だらけだったような気がするが、通俗雑誌に載った長篇に伏字のあった記憶は私にはない。ということは乱歩が上手に伏字の部分を取って前後をつないでしまったか、或いは危い部分はちゃんと計算して予め書こうとしなかったか、その何れかであろう。  もしも検閲制度を手玉に取って、あれだけ猟奇的な(と乱歩の語彙を使えば)犯罪小説を内務省から文句をつけられない範囲内で書いたとすれば、これは大した技術だと言わなければならない。現在のように刺戟的な小説や映画が巷に氾濫し、ちっとやそっとでは人が驚かなくなると、個性のある刺戟的な文章を上手に書くことはかえってむつかしいに違いない。しかしそれだから戦前は楽だったとは、誰ひとり言えないだろう。私は江戸川乱歩が、その軽妙な筆名を借用した本尊であるエドガー・アラン・ポオをどこまで読んでいたか、特にポオの詩とその詩論「構成の原理」とをどこまで理解していたかについては自信がないが、ポオの短篇小説を通して、暗示の美学というものを深く会得していただろうということは言える。乱歩が描こうとしたのは(純粋に推理的な要素だけを狙った短篇をのぞいて)凄絶な美、頽廃した美、この世にはあり得ないような美で、それはあからさまに描写すれば消えてしまうようなはかないものである。そしてこのような美は当然反道徳的であり、悪の匂を放っている。ポオの中にある可能性を拡大して見せたのはボードレールだが、乱歩もまた或る面に於て、ポオの中の可能性を引き継ぎ、それを日本的風土の中に移植したと言えないこともないだろう。ただ、そのような美をもっと徹底的に(というのは必ずしも暗示的手法によらないでと言うのではなく、その手法を更に効果的に生かすことによって)追求することが出来たならばと空想する。「パノラマ島奇譚」の方向が、最もポオ的な線だったように思う。しかし繰返して言えば、それ以後の長篇小説が通俗への迎合であるとばかりは、私は考えないのである。      2  遊びの精神というのは誰しもあるものだが、私もまた少しばかり持ち合せている。「週刊新潮」が創刊されて暫く経った頃、私は編集者にそそのかされて推理小説を書く約束をした。但し本名で書くのは厭だから、江戸川乱歩の亜流を行くような何か面白い名前を見つけ出そうと首をひねって、加田伶太郎を発明した。タレダロウカをもじったもので、ついでに名探偵伊丹英典を登場させた。これもローマ字で置き直すとメイタンテイになる。そのあと「小説新潮」に三つばかり書いたが、どれもこちこちの本格物で、我ながら味わいに乏しかった。ところが絶対秘密の筈のペンネームが編集者の口からつい洩れてしまった。真先に編集部に電話して問いただしたのは、今は亡い十返肇だったそうである。そこでどういう経路を辿ってか、私がこっそり推理小説を書く趣味を持っていることが、乱歩さんの耳にまではいってしまった。昭和三十二年、乱歩さんが「宝石」の編集を引き受けて新人発掘に乗り出していた頃である。  乱歩さんに頼まれて推理小説を書かされた人は、その当時たくさんいた筈で、私なんかはまさに驥尾《きび》についた一人だが、アパートの狭い玄関に突如として乱歩さんが現れた時には、殆ど仰天した。私は人みしりをする方だし、何しろこんな大先輩から原稿を直接頼まれるのは、光栄を通りすぎて迷惑である。と言って乱歩さんには少しも押しつけがましいところがなく、人柄のよさが見えている。びっくりしたはずみにどうやら生返事をしたらしくて、とうとう短篇を書かされた。  その頃私は乱歩さんと外でも会い、またその家を訪ねて「新青年」のバックナンバーを一冊借覧した覚えもある。乱歩さんは話をすると飽きない人だったから、もっとしばしば機会があったならばと残念でならない。その年の末に、私はそれまでの僅か五篇の推理小説を集めて、「完全犯罪」という加田伶太郎の唯一冊の作品集を出版したが、乱歩さんはそれに長文の跋文を寄せて下さった。従って私と乱歩さんの関係では、私の借の方がずっと大きいのである。  その後暫くで私は推理小説を書くことにくたびれ、乱歩さんとの附合もいつしか絶えてしまった。或る時梅崎春生のところに遊びに行くと、何を思ったのか彼が江戸川乱歩の著作を三冊も私にくれた。「幻影城」をはじめとする乱歩の謂わば学者的作品で、それがみな著者の献呈本である。こんなものをくれてもいいのか、と訊くと、君が持っている方が役に立つよ、との返事。それでは借りようと言うと、僕は要らないんだと押しつけられて、とうとうその三冊は私の書架に場所を移した。私もそこで探偵学を、梅崎流に言えば「勉強」することになったが、あの乱歩さんの博学な本を読むと、何となく本格物を書くのが馬鹿らしくなるほど探偵学の万般にわたっている。それに私の本格物愛好もいつしかハードボイルド物の方に趣味が移っていたから、梅崎の贈り物は加田伶太郎にとどめを刺すという役割を果した。  梅崎春生も江戸川乱歩も、符節を合せたように昭和四十年の七月に死んだ。暑い最中で、殆ど相継いで亡くなった。「梅崎春生様 江戸川乱歩」と肉太の筆で書かれている「幻影城」の献辞を見ていると、梅崎や乱歩さんと探偵小説のことなどを談笑していた一昔前のことが、彷彿と浮んで来るのである。 [#地付き](昭和四十四年四月)     中村真一郎とカツ丼  中村という姓はたくさんあるが、私が中村と呼び捨てにするのは中村真一郎に限られている。その中村とは一緒に中学に入った仲だし、それから同じ高等学校同じ大学を経て今まで同じ道を歩いて来たのだから、中村のことなら何でも知っていそうな気がする。しかしその反面、最も大事な部分をひょっとすると知らないで過ぎて来たのではないかという疑いもないではない。昔から遠く離れていれば長い手紙を交換したし、会えば何時間もぶっつづけに話し合った。電話でさえも女の長話よりももっと長い。しかし中村という人間の中にある複雑な内容は、私には簡単に分析することが出来ない。  私たちが最も頻繁に附き合っていたのは、恐らくは大学生の頃だったのではないかと思うが、私は小石川に住んでいて、本郷の大学に通学していた。教室で彼と落ち合うと、共通の講義を聞くこともあり研究室で先生や他の友人たちとお喋りをすることもあるが、それさえも多くは二人一緒で、そのあとは連れ立って本郷通りへ出て行く。それから古本屋をひやかすか、一緒に喫茶店に入るか、それとも中村が住んでいたMさんの家へ行くか、とにかく顔を見てからはもう二人とも膠でくっついたようで、ありとあらゆることを喋り合った。  その頃の中村は現在と違って電線のように痩せていたし、しょっちゅう腹を空かせていた。彼の大好物はカツ丼で、ついでながら私のそれは天麩羅そばだった。しかし二人ともぴいぴいしていたからめったに御馳走にはありつけなかった。白十字のランチも食えないようになると、Mさんの家で焼飯を食わせてもらったが、その美味だったことを私は未だに忘れない。私たちは武士は食わねど高楊枝という顔をして、ひょろひょろと本郷通りを歩いていた。  私たちはフランス文学科の学生だったが、どの程度前途の目安がついていたものか。卒業しても就職ぐちの見つからない時代で、翻訳で食って行く自信なんかは勿論なかったし、内心心細い思いをしていたに違いない。私は少しばかり詩を書いていた。中村にしてもまだ小説に手を染めてはいなかったと思う。しかし私たちは、職業として小説家を選ぶつもりはなかったとしても、小説を書く決意だけは充分に持っていて、意気軒昂としていたようである。私たちの会話の中心は、専ら内外の小説を批評することにあった。一九三〇年代のヨーロッパの小説、昭和十年代の日本の小説、そういう現代小説をお互いに競争のように読んで、勝手なことを言い合う。二人の間に好みの差がある以上、惹かれる対象がそれぞれ違う場合はあっても、相手の意見を聞き入れないほど狭量ではなく、こちらの意見を押しつけるほど自信過剰でもなかった。  そういう点は昔から今まで殆ど変りはない。中村は正しい観察眼と柔軟な鑑賞眼とを持っていて、加えるに長所と短所とを直ちに見抜く才能があり、その意見にはいつでも説得力があった。しかしその当時、私たちがまだ実作の経験のない時代に於て、彼の論鋒は最も鋭かっただろうと思う。お互いに知識を交換し合うことによって、私たちは小説というものはどういうふうに書けばいいのか、もう殆ど知っていたと言うことも出来る。ところが実際には、二人ともまるで素人で、計画は頭脳の中にしかなかった。  いや頭脳だけではなく、ノオトに書いたプランぐらいはあったかもしれない。中村のことだから、せっせとノオトブックにいずれ書くべき小説のメモを取っていたのかもしれない。戦争中に彼は沢山のノオトを準備し、戦後になって註文があるようになると、殆ど無尽蔵の材料をそのノオトから汲み出していたようである。とにかく私たちは、小説というものは、あらかじめ綿密なノオトを取り、布石を整え細部を研究してから書き始めるものだと信じていた。従ってノオトと言っても、十九世紀的な documentation としてのカードやノオトの謂《いい》ではない。それに小説というのは勿論長篇小説の意味である。  ところで二人の痩せた大学生は、頭脳の中では何でも書ける筈だったが、実際には何一つ書いていなかった。その答は極めて簡単で、書くべき内容としての実人生の体験に乏しかったためだろう。アラジンのランプを抱えてせっせと硝子をこすっていたが、肝心の魔物《ジン》が昼寝をしていたのだろう。文学的才能はランプのようなもので、その硝子はこすればこするほど明るくなるだろうが、喚び出される魔物が休んでいたのではどうにもならない。  私たちが本郷通りで気焔を上げていた頃から、私たちはそれぞれ苦労を重ね、中村は昔の計画を実現したし、現に実現しつつある。昔野心家だったように、彼は今も野心的な小説家である。しかし私は時々、あの無限の可能性を持っていることの自負に眼を光らせながら、カツ丼を食おうやと言っていた中村のことを思い出すのである。餓えた青年にとってのカツ丼のような傑作を、中村にこの後も書いてもらいたいと思う。 [#地付き](昭和四十四年七月)     フロイトと私  高橋義孝氏の翻訳されたフロイトの「夢判断」は、初め日本教文社から出版された。その上巻は昭和二十九年十月、下巻は昭和三十年八月の刊行となっている。なぜ私が刊行日時にこだわるのかと言えば、私は当時も今も高橋義孝氏と一面識もないのに、たまたまこの二冊の訳書を、それぞれ発刊と同時に頂戴したことを覚えているからである。謹呈という訳者の名刺を見ながら、これはどういう間違いだろうかと久しく首を捻っていた。その頃私は療養所から出てまだ間もなく、本を貰えるような先輩や友人はあまりいなかったし、フロイトの本がただで手に入ったというのは大いに嬉しかった。  そのあげく私はこういうふうに解釈した。この上巻が出た同じ年に、私は「冥府」という小説を発表したが、その中の登場人物の一人は心理学の教授で、無意識について長々と講義をしたりする。またその年の秋、つまりちょうどこの上巻が上梓されたのと同じ月に、「夢みる少年の昼と夜」という短篇を雑誌に発表したが、この小説の半分は夢の描写から成り立っている。そこで高橋さんは江戸前の皮肉をこめて、君はこの本でも読んで少し勉強したらよかろうと思われたのではなかろうか。  下巻が出るまでに私は更に「夜の時間」というのを書いたが、この小説もやはり無意識の研究といった趣きがあるから、高橋さんはどうせついでだから下巻もあげるが、フロイトには面白い症例が色々ありますよというお気持になられたものであろう。これは私の臆測だから当っているかどうかは分らない。  確かに私は長い療養所時代に精神病理学に凝っていた。凝るというのは学問に対して使うべき言葉ではないが、私のは素人の横好きだから、もともと学問的とは言えない。しかし身体の健康を害して寝たきりになれば、精神の健康もおのずから損われる。そういう患者が一つの療養所に何百人も一緒に寝起きしていれば、そこにさまざまのケースがあって、自分を含めてこういう病人たちの精神状態を識別する一種の原理を探したくもなるのだ。人間の内部にあるものは渾沌として測り知れないが、それを何等かの物差で測れるとしたらこんな面白いことはあるまい。しかし私は専門家でもなく、物差も持たず、しかも原理というのがそれほど確実ではなかった。それは科学の場合と違って、人間という対象そのものが確実でないのだからしかたがない。ミンコフスキイの謂わゆる「現実との生きた接触」が、療養生活を送っていると健常人の間にも突発的に消滅する場合があることなどを観察した。  療養所を出た後に書いた三つの作品「冥府」「深淵」「夜の時間」を私は「夜の三部作」と自称しているが、その共通の主題は意識と無意識との問題、もしくは破壊本能の問題であり、フロイトは、実を言えば「夢判断」を読む以前から私の関心の中枢をなしていた。私は入門書のようなものを漁ったにすぎないが、フロイトのヒステリー研究は私が後に自分の中に採り入れた多くの思想に富んでいたように思われる。「ヒステリー患者は過去の故に病んでいるのであり、その示す症候は或る外傷的な体験の遺物、または象徴的記憶なのである。」こういう文句を、私は自分の任意の小説の題辞に選んでもいいように思う。私はすべての場合に(小説に於てで実生活に於てではない)その人間の過去にこだわるが、たとえヒステリー患者でなくても、人間は「外傷的な体験の遺物」を持たないわけではなく、それは無意識の深い淵に眠っているのである。眠ってはいるが、それは現在とまったく無関係ではあるまい。そこからフロイトの心的装置が私の興味を惹き、またリビドーに関する学説も面白いと思った。或る意味でフロイトの学説は少々面白すぎる嫌いさえある。つまり素人むきに出来すぎている。独創的であると共に非妥協的であり、無意識の内容にしても、あまりに性の占める分野が広く、解釈のための解釈に陥ったようなところが少くない。ヤスペルスの言うように、「フロイトは性生活の抑圧から起って来ることをしばしば極めて適切に見ている。しかし精神の抑圧からどんなことが生れて来るかの問は一度も出したことがない。」  私は二十世紀の小説がフロイトに多くを負っていることを認める。私にしても意識と無意識との問題をフロイトから学んだ。しかしフロイトと世界観を共にすることは出来なかった。私が真に共感したのは、その後に翻訳の出たヤスペルスの「精神病理学総論」で、例えばその中の「人間は眺望不能である。」というような言葉である。しかしそれだからといって、フロイトの精神分析の面白さが減じるものではない。思うにフロイトは、彼自身の分析した症例よりも、彼を客体として分析した症例の方が百倍も面白いような、一種の異常人であったのだろう。 [#地付き](昭和四十四年十月)     手紙について  この頃私たちは手紙というものをあまり書かなくなった。これは人間が無精になって来たというせいもあるだろうし、電話が津々浦々まで通じているから、大抵の用件は電話で済ませられるということもある。声が聞えれば、存在それ自体まで肉声と化して相手に伝えられるという便宜は認めるとしても、口に出してしまえば味もそっけもない場合だって少くない。心情を吐露するのに、肉声を以てするよりも手紙の方がまさっていることは、これは恋文を書いた経験のある人なら誰しも認めることだろう。以上は一般論だが、私個人に関しても、久しく日記もつけず手紙も書かずという状態が続いている。恋文を書くことはないとしても、手紙を書くべき破目になることはしばしばあるが、なるべく文字を書くことを倹約しようという不埒な気持が働く。それというのも原稿用紙の升目《ますめ》に字を埋める作業で、ほとほとくたびれているせいかもしれない。  自分で書くのは面倒くさいが、人の書いた手紙を読むのは面白い。書翰体小説というジャンルにまで至らなくても、例えば我が国で言えば、漱石と鴎外とはその文学作品に匹敵する手紙を書いていて、その点でも殆ど双璧と言ってよい。漱石がロンドンから子規に送った手紙とか、鴎外が戦地から妻に寄せた通信とかは、特殊の事情のもとに書かれたせいもあろうが、物珍しい事物の紹介と心情の吐露とがほどよく混合して、書き手の息づかいまで伝って来るようである。手紙というのは、普通は当方の見聞とか事情とかを相手にしらせて、そのあげく自分の心持を洩らすものだから、前者の客観性と後者の主観性とがどのように折り合っているかで、手紙のうまい下手がきめられるのではないかと思う。芥川龍之介の手紙は才気が迸り出ていて、私も昔は随分と愛読したものだが、やはり厭きるということはある。それに対して漱石鴎外両全集の書翰の部は、現になお私の枕頭の書と言える。どこを読んでも面白いし、通読しても面白い。従って書翰集の特徴は、個々独立したコントから成り立っている点にあろう。これが手紙を集めた形式で成り立っている書翰体小説だと、「危険な関係」にしても「二人の若妻の手記」にしても、拾い読みをするわけにはいかない。それでは筋が通らない。もう一つ、書翰集のよさは、一つ一つの手紙がどういう状況で書かれたのか、そこに読者の想像力を刺戟するものがあって、例えば長々と月並な挨拶が述べられているのが実は借金の前置だったなどということもある(これは漱石鴎外とは関係のないこと)。このことは往復書翰集の出版という習慣が我が国にはまだ乏しいからで、往復書翰なら状況は大体に於てすぐに分るだろう。近頃坪内逍遙と会津八一との間に交された手紙が出版されたが、このようにして例えば萩原朔太郎と室生犀星との間の手紙が編集されたなら、誰しも興味津々たるものを覚えるに違いない。フランスでは|N《エヌ》・|R《エル》・|F《エフ》関係の著者たちはみな手紙好きで、ジイド=ヴァレリイとか、ジイド=クローデルとか、ヴァレリイ=クローデルとか、クローデル=リヴィエールとか、また青春の見事な造型であるリヴィエール=アランフルニエとか、とにかく誰も彼も手紙ばかり書いていたらしく、中でもヴァレリイとクローデルのようにまるで仲の悪そうな間柄となると一段と面白い。  文学者の手紙は、若い頃は別として、どうも本音を吐いていないように見える。彼等は作品の中に真実を投入すればいいのだから、手紙の中でわざわざ自分の内面を曝け出す必要はない、という推定も成り立つ筈である。しかし必ずしもそうではない。手紙はまったく私的な根拠に立ちしかも相手あってのものだから、相手がごく近しい肉親、友達、恋人、妻、といった場合には、作品のような公的な舞台では見せられない素顔を垣間見せることがある。多くの場合に、手紙は彼等の作品を解くための有力な鍵となる。マラルメは難解な詩人として聞えているが、マラルメ学者であるモンドール教授が彼の蒐集したマラルメの手紙からの抜萃を集めた「マラルメ詩話」は、近頃完全な書翰集が出版されるまでは、小冊子ながら研究者のための必読書だった。つまり自作自解の趣きがあって、もしもマラルメが手紙を書かなかったなら、詩人の真価はまだまだ認められることが遅かったのではないかと余計な心配をする位である。そういう虎の巻的な値打を別にすると、同じ象徴派の詩人ならボードレールの六冊の書翰集の方が一層興味深い。それは生涯の経歴が一層複雑なせいもあろうし、またマラルメの手紙の相手は詩人仲間が多いが、ボードレールの相手は多くは母親で、綿々切々たる怨みつらみが愛情と綯《な》い合されているからであろう。もっとも十九世紀のフランスには、バルザックやフローベールやメリメのような書翰文学の大家がいるから、私などが偉そうなことを書く柄ではない。  ところで文学以外の芸術家の手紙となれば、これは本音を知るには書翰集以外にはないことになる。私は以前にゴーギャンを調べるためにその手紙をあらかた読んだが、読みにくいのに閉口した。手紙の本文から活字に起す作業に既に間違いがあるとすれば、私のように活字本で読むしかない人間は、その間違いを踏襲することになる。文脈がおかしくなったり、辞書にない字が出て来たりすることもしばしばある。それにも拘らずゴーギャンの手紙は、ゴーギャンという画家の溢れ出すような野蛮な力に充ち満ちていて、殆ど巻を措くことが出来なかった。セザンヌやピサロの手紙ではこうはいかない。画家は文学者とは違うから、文章を整えたり気持を飾ったりする余地はない。そこに独特の持味が、私の言葉で言えば本音が、どうしても滲み出ることになる。  そこでファン・ゴッホ。私が手紙というものについて無駄口を叩いて来たのは、つまりはゴッホ書翰全集を褒めようとしてのことだが、思えば既に定評のあるものを今さら私が持ち上げたところで何になろう。それに私は全部を読んだわけではない。或る時ゴッホを調べるために厖大な三巻本全集を借覧して、必要な箇所を飛び飛びに読んでみたが、いつのまにか時が移っているのに驚いた。一度あの手紙の世界に、ということはゴッホの内部にということだが、参入してしまうと俄に抜け出すことは難しい。私はこれでは仕事にならないと諦めて、後日の愉しみに取っておくことにした。恐らくドストエフスキイが最も肯定的な人物を創造しようとして「白痴」を書いたように、ゴッホは最も肯定的な文学作品を、一生かかって、その書翰全集に書いたのであろう。 [#地付き](昭和四十五年一月)     渡辺一夫先生の一面  学生時代に教室で薫陶を受ければ恩師である。私が東京帝国大学の仏文科の学生だった頃、辰野隆教授、鈴木信太郎助教授、中島健蔵講師、このお三方は文字通り私にとっての恩師だった。そこにもうお一方、渡辺一夫講師がいらせられたのに、私はその教室に一度も出たことがない。僕のつまらない講義なんか出なくってもいいですよ、と例の温顔で言われた覚えがあるが、実を言うとその十六世紀文学の時間は、恐ろしく専門的で歯が立たないだろうと予め見当がついていたので、つい遠慮したまでである。従って教室でお目にかかったことのないような不肖の弟子が、やたらに恩師呼ばわりをしては申訳ないのだが、渡辺先生はどう考えても恩師以外の何ものでもない。固くそう信じている。  まず研究室。その頃の仏文研究室は和気|藹々《あいあい》として、何しろ学生の数が少いのだから先生がたと親密にならざるを得ない。そのあげくに本郷通りの喫茶店までお伴をする。それから真砂町の先生のお宅へしげしげと足を運ぶ。何しろ大学からは近いし、こちらの知的好奇心は旺盛だし、中村真一郎などと共に先生や奥さんの御迷惑なんかまるで考えずに、長い間ねばっている。その間に聞かされた四方山話が、つまりは私のフランス文学的素養の大部分を占めているのではないかという気がする。先生の専門の十六世紀の方は、何しろ当方が無知蒙昧ゆえ恐れ入って聞いているだけだが、現代文学などについて質問してみると、これが何でも詳しいのだ。それが表面はごく謙遜な口ぶりで、御存じないのかなと思っているとさに非ず、見事に足をすくわれてしまう。こちらがたじたじとなるうち、ひょいと向うから質問されて赤面する。とにかく慇懃で、皮肉で、丁寧で、蛇に見入られた蛙のような感じがしていたが、蛙の方で蛇が好きなのだからしかたがない。  しかし私の方も若くて生意気だった。大学を出たあと、私は或る同人雑誌に「マルドロールの歌」の翻訳を連載していた。多分その雑誌を持って行った時だろう、先生がオ・サン・パレイユ版の「マルドロールの歌」の初版本を書庫から出して来て見せて下さった。たしか九十部限定本の一冊で、涎の出るような代物だ。君の翻訳が出来上ったらあげますよ、と言われたから、ここぞとばかり、こういう本は翻訳している間に手許にあれば一層の励みになりますと力説し、とうとうその場でせしめてしまった。つまり翻訳完成の口約束で、所有権を移動させた。これが鈴木信太郎先生だったら、見せてもらうだけでも大変で、口が曲っても下さいなどと切り出せるものではない。その点、渡辺先生には心やすく口がきけたし、先生の方でも本が役に立ちさえすればどこにあってもいいとのお考えだったろうと思う。ほくほくしてその晩は枕もとに飾って寝た。しかるに翻訳は遂に完成せず、大事な本は戦災で焼けてしまったから、今でも思い出すたびに気が咎めてならない。  学恩と言えば、私がフランス文学の翻訳で糊口を凌ぐことが出来たのは渡辺先生のお蔭である。大学の二年の時、河出書房からボードレール全集が出ることになって、「人工楽園」が先生の受持だった。その締切が迫って、作品の一部分を三人が分担して下訳することになった。あとの二人は先輩の文学士だったから、渡辺先生がなぜ学生の私などを選んで下さったのかよく分らない。しかしどうも試験を受けさせられたという感じもあった。せっせと勉強して訳稿をお持ちしたところ、縦横無尽に朱がはいって、面目一新、蛹が蝶になるように渡辺一夫的文体に変身した。単に誤訳が訂正されただけではない。翻訳というのはこういうふうにやるものかと、目から鱗の落ちる思いがしたことを覚えている。その試験にパスしたらしくて、翌年今日出海さんに紹介していただき、モーリス・ブデルの現代小説をまるまる一冊下訳した。今さんの方はまことに鷹揚で、一字一句も直しがなかった。結局は渡辺先生の時の下訳の経験が物を言ったわけだった。大学を出た年に、今度は自分の名前でアンリ・トロワイヤの小説を翻訳したが、これも渡辺先生か今さんの推薦だったのだろう。分らない箇所があると真砂町のお宅に駆けつけた。とにかく渡辺先生に訊けばどんな疑問も氷解するのだから、こんな有難い先生はいない。但しこの翻訳は、戦争が始まる直前の御時勢ゆえ、陽の目を見なかった。  こういう実地の教育を別にすると、戦争前の私たち大学生に渡辺一夫の与えた影響は、その書かれたエッセイや随筆によるものだろうと思う。学問的な研究と違って、先生の心情の滲み出た文章は、その座談と同様、真に人間らしい心持で貫かれている。先生は大声疾呼するタイプではないからいつも低声で語られるのだが、聞く方が耳を傾けているとその声はよく透る。ペシミスチックな語り口でも、百万の味方という気がして来る。どんな御時勢でもこういう人がいるから安心だと思うその幾人かの貴重な存在の一人である。戦後になっても、そういう木鐸としての先生の位置に変りはないだろう。  先生には引込思案のような、世をはかなむような、現代の隠者といった一面がある。戦後私のことを永井荷風みたいになりはしないかと、先生が心配していたと中村真一郎が書いているが、私の閉鎖的傾向は、ひょっとすると荷風の影響ではなくて渡辺先生の影響かもしれないのだ。しかし先生はただの隠者ではない。間違ったことがあれば黙っていられないし、その眼はいつも遠くまで見通している。それがどんな学問的な随筆の中にも、まざまざと現代の息吹を与えることになる。それにあの独特の皮肉。私たちが「方舟」という同人雑誌を出した時に、先生から「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」という見事なエッセイを頂いたが、そのおしまいに一転して、「(方舟は)これからの大洪水から自分たちだけが助かる為に作られたものではないと思ひます。」という箇所がある。その時、にやりと笑う先生の御顔が眼に浮ぶような気がした。 [#地付き](昭和四十五年五月)     私の揺籃  揺籃《ようらん》、ゆりかご、その言葉は懐しいが、私は想い起してみても揺籃に入れられて揺すられていた記憶はまったくない。揺籃という字でついでに聯想するのは、同じような難しい漢字の鞦韆《しゆうせん》である。これはぶらんこのことだが、私はぶらんこで遊んでいた情景も、やはりはっきりと思い出すことが出来ない。しかし身体がしなやかに揺すられている感じ、そのかすかに不安の混った、気の遠くなるような、うっとりした感覚は、確かに過去に生れて現在に続いているもののようである。それは何かを生み出すための魂の母胎であったような気がする。揺籃は、現実に対する酩酊であり、眼に見えるものの幻蘊《げんうん》であり、夢の方への誘惑である。子供は子供である限りの時期に於て、揺籃で揺すられているような、ぶらんこで風を切っているような、一種の陶酔を覚えているのではないだろうか。その子供が、現実はあるがままにあり、決して酩酊でも幻蘊でもないと経験によって知るたびに、彼は少しずつ大人になって行くのではないだろうか。  私はもともと子供の頃のことを殆ど思い出さない。そうした記憶が私には欠けているとの主題のもとに「幼年」という小説を書いた位である。しかし人が文学というこの不確かなものに手を染めるのは、実際のきっかけはともあれ、彼が子供の頃に感じていた或る種のもどかしいもの、感覚、感情、情緒、認識などを一緒くたにした子供の内部、それに表現を与えたいという願望から発しているような気がする。小さな子供の内部には殆ど了解不能の部分がある。何かしらわけの分らない巨大な暗黒のようなものを内部に埋めている。赤ん坊は手足を動かすことによって自己を表現する。そのうちに言葉を覚えても、しかし子供はそれを充分に使いこなすことが出来ない。言葉は実用の具である以上に、子供にとっては好奇心の対象、いなそれ以上に一種の神秘な護符のようなものだ。しかし初めは新鮮で、全能で、無垢だった言葉といえども、すぐに(大人によって)使い古された、腐敗しかけた、ただの日常的な意味しか持たないものに変ってしまう。そして子供は、失望するよりも寧ろ馴れてしまい、言葉に魔力があったことを一日一日と忘れて行き、と同時に、より幼かった時に感じていたあのもどかしいものをも次第に忘れて、やがて自分もまた大人になる。それは既に別世界の消息になってしまう。  しかし多くの人は、言葉によって創り出されるべき世界への郷愁を、大人になってもまだ保存しているし、また或る少数の人は、言葉の魔力を自分の手で取り返し、その別世界を自分なりに(彼の見ているように、そして彼の言葉によって)構築してみたいと考えるのである。文学は、たとえ現実をそのまま写しているように見える場合でも、必ずや別世界の消息にすぎず、作者がそれを伝え、読者がそれを共有する。この世界は子供の感じていたあのもどかしいものとは違うだろうが、しかしその類縁のうちに成立するのである。  揺籃の、或いは鞦韆の感覚、それはもう朧げな、手応えのない、捉えることの出来ないものである。それは時間のように流れ去るもの、というよりは時間の虚空にぽっかりと浮いているような、美とか真実とかいうのとは違った、一種の本能的な麻痺状態である。それは必ずしも言葉によって定着できるとは限らない。言葉が美を捉えるために、もしくは真実を捉えるためにあるとすれば、それは言葉が実用のためにあるというのと、さして違わないだろう。結果として言葉は美を描くこともあろうし、真実を掴むこともあろう。しかし言葉は何よりも、表現不能の或る不可思議な世界を、魂を、暗黒を、探り当てる測深器でなければならない。どんなにおびただしい言葉が氾濫しても、文学は例えば赤ん坊に於ける揺籃の感覚を描くことが出来なければ、殆ど無に等しい。巨大な現実は、百万千万の言葉を費やしても、その表面を掠めることさえ出来ないだろう。現実は言葉の中にある。現実が虚妄であり、言葉そのものが別世界の現実だと考えなければ、どうして文学などというものが成立し得るだろうか。  中学生の頃、私の持っていた英語の参考書に、最も美しい英語の単語というのが十ほど別に掲げてあった。一体どういう見地でそれらが選ばれたのか、単なる著者の好みによったものかどうか、私は知らない。その十ほどの単語の中で今でも私が思い出すのは次の二つである。Lullaby(ララバイ)と Mermaid(マーメイド)と。いずれも耳に快い響きを持ち、前者の子守唄、後者の人魚(女性形である)という意味によっても、美しい。当時の私は殆ど陶然となって発音し、それと同時に一つの言葉の周囲に同心円をえがいて夢のような情景が浮んだり消えたりしたが、しかしその情景ははっきり眼に見えるものというより、不透明な、まだ言葉によって定着することの出来ない、未成熟な憧憬だったように思われる。それよりも溯って小学生の頃、恐らくは大人用の雑誌から眼に入ったのだろうが、「歓楽の都」という言葉を覚え、それが気に入って久しく脣の上で味わっていた。その正しい意味さえも知らなかったに違いない。しかし大人になって、正確な使いかたを知るようになった時の「歓楽」と、小学生がうっとりと口ずさみ、それによって空想していた或るきらびやかなものとは、もう決して同じではないのである。  私たちは言葉の貯蓄をふやし、その意味や用法を諳んじ、言葉と言葉とを連結する技術を習得して行くが、最も大事なことは、あの揺れ動いているものの微妙な感覚を定着するための、唯一の方法としての言葉を認識し、同時に子供の心に帰って、言葉の魔術を信仰して「開け胡麻」と呟いていた頃の自信を持つことであろう。私にとって言葉とは、私がそこから出発したところの揺籃、或いはその揺籃の感覚である。 [#地付き](昭和四十五年五月)     ロートレアモン周辺  雑誌「ユリイカ」がロートレアモンの特輯号を出すというので、ここに文章を需《もと》められた。ロートレアモンも遂に出世して、我が国の雑誌をしてかかる企画を立たしめるようになったかと思えば、私としては多少の感慨なきを得ない。私としてはなどと偉そうな口を利くほど、私がロートレアモンの専門家だと言うわけではないが、ただ私は、比較的早く、と言っても私より遥か以前に青柳瑞穂さんの翻訳があるのだし、その翻訳の量にしても私は青柳さんよりももっと僅かしか物したことがないのだからお粗末の限りなのだが、とにかくロートレアモンに眼をつけたという点だけは買ってもらいたいのである。今ここに長文のエッセイを書く余裕はとてもないから、私の感慨の由って来るところを随筆ふうに記してお茶を濁すことにしたい。      ○  私は東京帝国大学のフランス文学科を昭和十六年、即ち西暦一九四一年の春に卒業したが、その卒業論文の題名は「詩人の世界、ロートレアモンの場合」というのである。戦争前のことで仏文科の卒業生などは数えるばかりしかいなかったが、論文は必ずやフランス語で、それも相当の枚数分を書かなければならなかった。題材も古典に限られていたようである。私の選んだロートレアモンは異色中の異色であり、もちろん先例はなく、題名を登録する際に、先生がたから宜しいと言ってもらえるかどうかも怪しかった。そこで私は多少の策をほどこし、象徴派の詩人たちに於ける世界の構造を論じるつもりですと前触《まえぶれ》を述べ、ボードレール、ランボー、マラルメ、ロートレアモンなどをみんな書きたいが、それでは厖大なものになるから、ひょっとすると第一部のロートレアモンだけで終るかもしれませんと、鈴木信太郎助教授に説明した。鈴木先生の方は私の真意を見抜いたような笑いを浮べて、そんなにたくさん書けるものかね、と軽くいなされた。そこで私の書いたものは、まず本論の短い「詩人の世界」があり、そのあとに長い「ロートレアモンの場合」がくっつく、それでおしまいという予告通りの構成になった。それでも厚手の大学ノオト三冊である。私は今これを信濃追分の山荘で書いているから実物を見て確かめるわけにはいかないが、東京の家の本箱の隅あたりに、件《くだん》の論文が埃まみれになって眠っている筈である。めったに放っておいたら赤恥を掻くぞと、卒業後に、中村真一郎と語らって大学の研究室からいち早く盗み出した。まあ自分の物を自分で持って来るのだから泥棒とも言えないだろう。不思議なフランス語で書かれた奇妙キテレツな論文で、何しろ締切までの時間が切迫しているから日本語で下書したうえ和文仏訳するというふうにはいかない。頭の中でもやもやしている題材をぶっつけフランス語で書く。その場合論理的に運ぶことが大切だから、AはBである、BはCである、従ってCはAに他ならぬ、というような単純明快、直接法現在と接続詞以外は出て来ないような文章しか用いることが出来なかった。今考えてみても、ロートレアモンとはまったく相反する文体であったことは間違いない。  その当時の仏文研究室の教授陣は、辰野隆教授、鈴木信太郎助教授、アンベルクロード講師、渡辺一夫講師、中島健蔵講師から成り立っていたが、辰野先生はロートレアモンを御存じなかったし、渡辺中島両先生は論文と関係なく、結局私の論文に眼を通した人は鈴木先生とアンベルさん(と省略して呼んでいた)とのお二方だけである。  戦前の論文審査の物々しい雰囲気については既に多くの人が書いているが、今思い出しても薄気味の悪い代物だった。質問者はアンベルさん一人と言ってもよい。この人はひょろ長い図体の上に火星人のような小さな頭が乗っていて、その頭も勉学のせいか頭髪はごく薄い。しかし年はまだ若かった筈である。そのカソリックの坊さんが早口のフランス語でペラペラと訊く。こちらは唸り声を発して天井などを見ていると、鈴木先生が側から日本語で助け舟を出してくれるので、ああそんなことかと思って、思いつく限りのフランス語を動員して返事をする。まことに我ながら歯がゆい。論文の主旨を申し述べろと言われて、とにかく喋るだけは冷汗たらたら喋ったが、やりとりのあげく、アンベルさんが忌々しげに口にしたのが、  ——Athee!  これが止めの一撃。こちらの論文もまずかったろうが、畢竟アンベルさんにとってロートレアモンは一個の無神論者《アテー》にすぎなかった。  アンベルさん一人には限らない。そもそもフランス文学史でロートレアモンをまともに扱ったのは、せいぜいチボーデのそれが一冊あるきりだったろう。余程の物好きでもない限りフランス人は相手にしなかった。我が国でも象徴派研究の大家である鈴木信太郎先生でさえ認めようとなさらない。いくら口を酸っぱくしても、あんなのは駄目だ、読むに堪えない、それだけであっさり片づけられてしまう。しかたがないからこれは信太郎先生のお年のせいだろうと(その頃先生はお幾つだったろう、まだ四十そこそこではなかったろうか)勝手に臆測した。生意気な話だが私はその時二十三歳で、「マルドロールの歌」を書いた時のロートレアモンの年齢とまったく同じだった。      ○  フランス文学科の大学生が、もし詩が好きだとすれば、真先に飛びつくのは恐らくランボーであろう。私もまた御多分に洩れず、外に出る時はメルキュール版の小型詩集をポケットに忍ばせ、家にいる時は机の上にクローデル序文つきの全詩集を載せてそこにせっせと註釈を書き込んでいた。いち早く卒業論文はランボーを書くことに極め、そう極めるともう安心だから、あとは手当り次第の詩人や小説家の作品を読み漁ってのんびり構えていたが、そういう時にたまたまロートレアモンを発見したのである。フィリップ・スーポーの序文のついたオ・サン・パレイユ版の全集を手に入れ、「マルドロールの歌」の第一頁を開いてあっと仰天した。「第一の歌」の一章は、読者よこれを読むな、引き返せ、という命令である。人を馬鹿にしてやがる、意地でも読んでやるぞという気になるのは当然だ。しかもこの章は全体の半分が渡りの鶴の群の長い描写で、これが引き返せという主旨の比喩になっている。こういう変な文章は、ランボーにもマラルメにもラフォルグにも嘗てお目にかかったことのないものだ。そこで私は夢中になって読み耽り、字引を引き引きとうとう読み終って、周囲の世界が黄色く見えるような感銘を覚えた。感銘というのではあるまい。文学的狂気に感染したと言った方が当っていよう。  私は超現実主義を通ってロートレアモンへ行ったのか、それともロートレアモンを通って超現実主義へ行ったのか、その辺が今でははっきりしない。しかしどうも超現実主義の詩人たちが紹介してくれたからロートレアモンを読んでみたわけではないらしい。謂わば私は独力で彼を発見したと自惚れている。と言うのは当時の私の秤では、「マルドロールの歌」は「地獄の季節」と重みが釣合う作品でもなく、また「ナジャ」と重みが釣合う作品でもなく、「悪霊」と目方を等しくする作品だったからである。キェルケゴールやシェストフなんかに凝っていた青年が、人生をあくまでも神のある側と神のない側とに分けて、この恐ろしく閉鎖的な作品に行き当ったということである。  ランボーとロートレアモンとは、超現実主義にとっては東西の両横綱のようなものだが、この二人は同じ秤では量れないだろう。ランボーは開いている。人生に対し、自然に対し、言葉に対して。そこにはいつでも生き生きした感動がある。私はランボーを読むと、いつのまにか自分が人間には意味の分らない声で囀る鳥になったような気がする。敢て言うならば(世のランバルディヤンよ怒るなかれ)自ら歌うことの出来ない連中が、ランボーを読むことで自分も詩を書いているような錯覚を覚えているのではないかと疑う。それが、ランボーがいつの世にも流行する原因だろう。ランボーは無数の眼を持つ、そしてその複眼は開かれた世界を隅々まで見抜く。その複眼を借りるなら、詩人でない人間も大抵のものを明かに見ることが出来る。それが借りものの眼だということに気がつかないのである。  ロートレアモンの場合はそれとは違う。これは徹底的に鎖《とざ》されている、完全に閉じられている。しかもそこにはたった一つの眼、マルドロールのそれしかない。この眼がこの有限な世界を睨むという単純な行為から出発して、視線は無限にまで到達し、世界は銀河系宇宙のように発展拡大するという不思議なことが起る。その世界の中心にあって、バネの役を果すものは悪である。(ランボーには悪もなければ善もない。或いは善悪の入り混った自然な状態だけがある。)悪と行動と想像力とが互いに関聯するロートレアモンの三大要素であろう。しかしその点を説明し始めると長くなって、随筆の域を脱してしまう。  大学生の私が、卒業論文の対象をランボーからロートレアモンへ移したことには、果してどういう理由が考えられるだろうか。長い間親しんで来たランボーに飽きて、目新しいロートレアモンに夢中になったということなのか。ランボーにはリヴィエールの論文や小林秀雄の論文があり、それ以上のことは言えそうにもないと我ながら臆病になったせいなのか。ランボーの謎よりはロートレアモンの謎の方が私にとって一層切実だったためなのか。  とにかく私はロートレアモンに関して手に入る限りの本をフランスに註文して取り寄せる一方、超現実主義の方へも深入りして行った。私のように文学と美術との両方とも好きな青年にとって、超現実主義はまことに手頃な興味ある対象だった。そこで一渡りせっせと眼を通したあげく、ブルトンの謎も、ダリの謎も、それは解けない謎ではないだろうと感じるようになった。何だ、それ位のことか、大して驚くほどのことはないと(青年はいつだって生意気なのだ)高をくくってしまった。しかし彼等が師表と仰いでいる二人、ランボーとロートレアモンの方は、私にとって、いつまで経っても謎が一層深まるばかりである。これで分ったと言い切れるようなものにはぶつからない。当時ロートレアモンの参考書としては、雑誌「ディスク・ヴェール」のロートレアモン特輯号、レオン・ピエルカンの「ロートレアモンと神」、それにガストン・バシュラールの「ロートレアモン」と三冊しか出ていなかった。ブランショの「ロートレアモンとサド」が出たのは遥か後である。従って繰返し原典を読むほかはなく、読めば読むほど五里霧中になる。伝記の謎は二の次である。これは材料不足で調べようもない。しかし「ポエジイ」は一体どういうつもりで書かれたものなのか。「ポエジイ」から逆に照明を当ててみると、「マルドロールの歌」は矛盾的作品と言う他はない。一体どこまで作者が本気なのか、この二つの作品のどちらを信じたらいいのか、当方の頭までおかしくなるようである。恐らく当時ロートレアモンを狂人と見る見かたが多かったのは、この矛盾のせいもあっただろう。しかし私は彼を狂人だと思ったことは一度もない。私にとっての謎は、如何にすれば「マルドロールの歌」のような文学的狂気(人工的狂気と言ってもよい)が可能かという点にあった。それは完璧なつくり物であり、観念のイメージ化を徹底的に推し進めれば、その世界は現実よりも一層現実的になるという自信を(まだ物を書くすべを知らなかった大学生に)与えてくれたようである。  戦後すぐにマルセン・ジャンとアルパド・メゼイの共著になる「マルドロール」が出て、その中にこの作品に影響を与えたおびただしいスールスが説明されていた。最近ボルダの叢書で出た教科書版(遂に教科書版さえも出た!)などでは、その研究が更に克明になっている。聖書から始まってダンテ、シェークスピア、その他もろもろの名作を端からもじってあるところを見ると、ロートレアモンは茶目けのある人間で、どうやら鼻唄まじりでパスティシュを試みたような気がしないでもない。しかし当時の私は、まったくくそ真面目に「マルドロールの歌」を観念の劇として受け取った。そしてくそ真面自に、魂の問題として私の卒業論文を書いた。そういう態度の故にこそ、ロートレアモンの影響はその後も私に深かったと言うことが出来る。  さてそれではロートレアモンから私がどういう影響を受けたかについて、次に書くべきであろう。直接的に作品に現れたものは殆どないが、もっと内部に沈潜したもの、つまり無意識の領域に於て。しかし自分で自分を分析するのはどうも面白くないし、私はただ卒業論文のことなどを述べてロートレアモンの周辺を散歩すれば話は済んだのだから、まあこの辺でやめることにしたい。 [#地付き](昭和四十六年七月)     鴎外のルビ  新潮社の文学全集で森鴎外集の編集解説を引き受けたが、その解説を書いているうちに疑問を生じたので、事のついでに本文の校正刷を取り寄せることにした。本文の部分にまで責任を持とうという殊勝な心懸である。しかし校正刷を見て行くうちに疑問百出して責任どころではなくなってしまった。そこで少しく恥を曝して識者の意見をうかがいたい。  近頃の文学全集はもっぱら現代仮名遣いと称するものに拠っているから、その他にも略字体を使い、送り仮名をふやし、または接続詞を仮名書きにするなど、平易を旨として原文を変更する点が多々あるのはいたしかたない。とすれば、原文の難解な文字に新しくルビを附けるというのも、当然のことであろう。私が問題にしたいのはこのルビについてである。  ところで私の疑問は、解説を書きながら「なかじきり」の中の次の文章を引用する際に生じた。その部分をまた引用する。岩波の戦前版全集第十八巻に拠り、原稿及び初出誌「斯論」は見ることが出来なかった。 「人間は生きてゐる限は思量する。閑人が往往棋を囲み骨牌《かるた》を弄ぶ所以である。〔改行〕剰す所の問題はわたくしが思量の小児にいかなる玩具《おもちや》を授けてゐるかと云ふにある。」  この中の「かるた」と「おもちゃ」のルビは初めから附いていた。その他には附いていない。「閑人」は「ひまじん」とも「かんじん」とも読める。強いて附けなければそれでもよい。現に信憑性の高い筑摩版の文学大系は歴史的仮名遣いを守っているが、この語にはルビを附けていない。しかし次の「棋」には「ご」と振ってある。私はこれは「き」ではないかと思う。次に「おもちゃ」はもともと附いている以上、妄に変更するわけにはいくまい。しかし私は語調から言ってこれを「がんぐ」と読みたい。鴎外が「おもちゃ」などという間延びした読みを採用したとは思われない。原稿にそうあれば一も二もなく引き下るが、雑誌の場合には記者が勝手にルビを附けたという疑いもあり得るだろう。そこで私が右の引用を主観的に読むとしたなら、「かんじん」「き」「がんぐ」とすべて音《おん》で読む。(しかし私は手が顫えたので、「閑人」「玩具」はルビなしのままにした。)  次に鴎外の本文の校正刷を見たうちから、もう一つ引用する。「舞姫」の冒頭である。 「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」  雅文体の三部作については、小堀桂一郎氏の「若き日の森鴎外」に詳しいテクスト・クリティクが載っているが、「徒なり」は原稿、初出誌の「国民之友」、「水沫集」ともに「やくなし」で、「塵泥」で初めて「徒なり」に変った。ルビはない。この字を現行の文学全集は、筑摩版を含めてすべて「いたずら」と読んでいる。私はこれを「あだ」と読みたい。これも語感の問題だが、「やくなし」を修正して「いたずらなり」とするよりは「あだなり」とする方が自然なような気がする。(しかし私の指示のしかたが明瞭でなかったために、新潮社校閲部は流布本のルビを採用して、本文では「いたずら」のままになっている。これは私の意志ではない。)  以上はほんの一例にすぎないが、もとの原稿が総ルビでない限りこういう問題はまだまだ生じるだろう。日本語というのは実に難しい。(文中のルビの部分は新仮名遣いによる。) [#地付き](昭和四十六年九月)     古代人の想像力  私はかねてから神話、伝説、昔話の類を好む。中でも神話というのは何処の国のものも面白いが、やはり子供の頃から馴染深いのは日本の神話だから、その関聯に於て他の国の神話にも興味があると言えるだろう。と申しても、決して比較神話学などという難しい学問とは関係がない。だいたい神話が好きだなどと公言するのは、些か子供っぽい気がしないでもなく、私のように学問や研究とは無縁の立場に立っていると、精神が脆弱な証拠かと人に疑われるかもしれない。嘗て神話を歴史と間違えてむやみとこれを信仰した連中は、当然脆弱な精神を持っていたに違いないが、しかし神話が好きだから子供っぽいと、めったにきめることは出来ないようである。子供がこうした昔話に惹き入れられるのは、話の内容に含まれている超自然的な荒唐無稽さとか非論理的な飛躍とかに我を忘れるためだろうから、大人の読者の興味の持ちかたとはおのずから別である。大人はなかなか我を忘れることは出来ない。子供は神話なり伝説なりを聞いたり読んだりしている時に、その話のただ中に自分を置く。大人のように外からそれを見ているわけではない。従って大人の読者は、専門家でなくても、神話にはその国民性もしくは民族性の、伝説にはその地域性もしくは風土性の、最大公約数的な特徴を、必ずや発見するものである。謂わばそこに、或る共通社会に働いていた想像力の源泉を見ることが出来る。古代人の想像力の産物である神話は、長い時間をかけて煮つまったものだから、現代人には容易に解釈のつかない部分をも含んでいる。さまざまの矛盾撞着さえある。しかしその理詰めで行かないところが、合理主義に馴らされた我々の眼には、反対に面白いと言うことが出来よう。  従って神話に対して、現代人の合理主義的な考察を押し及ぼして、これを解釈するという傾向が生じる。例えば八俣《やまた》の大蛇《おろち》とは、河川の氾濫によって毎年のように農民が災害を受けていたことの象徴だとする。それを須佐之男命《スサノオノミコト》が治水工事を施して稲のみのる美田に変えたというのである。しかし別の解釈も成り立つだろう。つまり単純に、八人の首領を持った盗賊の群を英雄が平定したというのである。こういう解釈をあれこれ空想することは愉しいが、やはり神話は神話として、最も初心の読みかた、言い換えれば子供の眼で、八つの頭と八つの尾とを持ち、苔むした胴体をくねらせている大蛇を思い浮べながら読むのでなければ、神話の本質に触れることは出来ないだろうと思う。古代人の想像力を追体験しようとするのでなければ、神話は学問の単なる材料として、乾からびた標本になってしまう。  現代人から見て、このような古代人の想像力が如何にも非現実的に見えるのは、物語が決定的な形を持つまでに、物凄く長い時間が経過しているからである。謂わばそれは或る地域の集合的な想像力を、時間という鉈によって枝葉を削り取った残りの幹のようなものである。もとの樹木の姿は見るべくもない。勿論神話が決定的な形を採るようになる時に、特定の個人が内容を変更した、もしくは取捨選択したということはあり得るだろう。「古事記」や「日本書紀」はその完成した結果であるだろう。しかしそれまでに、つまり伝承の時代に於て、一つの事実が次第に伝説と化し神話と化して行く間に、綜合的な想像力は、自分たちの好みのパターンの中に話を引き入れようとしただろう。必ずしも意識的に作為を施したのではなく、彼等の自然の感情として、その方がより真実だと思い込んだに違いない。 「古事記」と「日本書紀」には同じ説話を別様に語っている例が数多くあって、文学的には必ずしも「書紀」の方が劣るということはないから、両者を比較することで古代人の想像力が違った形で発展した形を見ることが出来る。特に「書紀」の方は、「一書に曰く」という形で同じ原形から出た異文を並列している点が面白い。一つだけ例をあげてみよう。  海幸山幸、弟の火遠理命《ホオリノミコト》が兄の火照命《ホデリノミコト》から借りた釣鉤《つりばり》をなくして、綿津見《わたつみ》の宮まで訪ねて行く話だが、そこから帰る時に、その釣鉤を兄に渡す際に口にすべき呪いの言葉と、それに伴う動作とを、海神から教えてもらう。それは次のようになる。  古事記——「游煩鉤《おぼち》、須須鉤《すすぢ》、貧鉤《まぢち》、宇流鉤《うるぢ》」と言って後ろ手に投げる。  日本書紀本文——「貧鉤《まぢち》」と言って渡す。 [#ここから1字下げ]  一書の一——「貧窮《まぢ》の本《もと》、飢饉《うゑ》の始、困苦《くるしみ》の根《もと》」と言って渡す。  一書の二——「貧鉤、滅鉤《ほろびち》、落薄鉤《おとろへち》」と言って後ろ手に投げる。  一書の三——「大鉤《おほぢ》、|踉※[#「足+旁」]鉤《すすのみぢ》、貧鉤、|痴※[#「馬+矣」、unicode9a03]鉤《うるけぢ》」と言って後ろ手に投げる。  一書の四——「汝《いまし》が生子《うみのこ》の八十《やそ》連属《つづき》の裔《のち》に、貧鉤《まぢち》、狭狭貧鉤《ささまぢち》」と言って三度唾を吐いて与える。 [#ここで字下げ終わり]  これらの間の差異は根本に於て大差ないとも言えるが、言葉に対する信仰の強さをそれぞれ別個に示しているようである。これらの呪文の持つ魔力は、古代人がそれを真実とみなした心から生じているので、決して想像力の戯れから生じたものではなかろう。  従って想像力と言っても、古代人のそれは我々の考えるのとは別である。彼等にとっては事実のみがあり、八俣の大蛇が実在したように、呪いの言葉も現実的な効果を持っていたに違いない。一個人が事実の上に少しばかりの空想を(例えば期待を、例えば願望を)加えたとしても、それは無意識に基いたものであったろう。しかしその無意識的な、自覚されないものが集合すると、そこに obscur なもの、mystique なものを生じて来る。その結果として、一つの事実が多くの人の想像力の総和となり、しかも個人の想像力の及ばない或る原始的な力を発揮して動き出すのである。そういう想像力は一種の神的な力とも言えると思う。  私が日本神話に惹かれるのは、記紀に含まれている歌謡のせいも多分にある。このような抒情詩を鏤《ちりば》めた叙事詩の美しさは、我が国独自のものであろう。しかしその場合にも、歌謡が初めから説話の中に含まれていたとは思われない。話は話、歌は歌で、その両者に共通の想像力が働いた場合にのみ、歌謡は物語の中に取り入れられた筈である。その歌謡が物語の中にぴたりと収まるためには、その両者を同じ心的傾向に属するものとして認める、想像力の一致が必要であった。伊須気余理姫《イスケヨリヒメ》が、御子たちに叔父の謀叛をしらせるために歌った二首の歌、—— [#ここから2字下げ] 狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす 畝火山 ひるは雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる [#ここで字下げ終わり]  これなどは叙景歌として独立して鑑賞することの出来るものだが、それを物語の中に加えて、事実の暗示としてコンミュニケーションに使うというのは、日本的な心情の形を最もよく示した、すぐれて文学的な一例だろうと思う。一人の作者がそういう技巧を発明したというより、古代人の綜合的な想像力がそのように働いたと思う方が、私には愉しく、また有難いのである。 [#地付き](昭和四十六年十月)     鴎外全集  好き嫌いは何も食い物だけに限らない。文学の畑にあっても、読者として好きな作家、嫌いな作家を生じるのは、人情の然らしめるところである。私はと言えば、私は健啖家ではないから選り好みをした上でごく少量を口にする。食養生の見地からわざと食べない物もあれば、生来の食わず嫌いということもある。これが文学史家とか批評家とかいった人たちなら、厳正中立、読まなければお話にならないのだから、私のようなことを言ってはいられない。その点好きなものさえ読んでいれば済む小説家というのは、有難い商売である。しかし食わず嫌いは健康に悪いし、取っつきにくいからと言って敬遠していれば、結局は損をするにきまっている。好きも嫌いも或る程度読んでからの話である。  こんな枕を置いたからと言って、嫌いな作家について書こうというのではない。そんな馬鹿なことを書く暇はない。もちろん好きな作家について書くのである。即ち森鴎外。——鴎外が好きなのは謂わば当り前みたいなところがあって、何も私ごときが声を大にするのはおかしい。その上私は夏目漱石も大好きと来ているのだから、当り前すぎて味噌汁も好きお澄しも好きといった趣きがないでもない。但しこういうことは言えると思う。私は早熟にも小学生の頃から漱石全集を座右に置いていたから(狭い家の中に親の買った漱石全集があれば、曲りなりにも座右ということになろう)漱石が好きなのは半分は親の感化にすぎない。しかし鴎外に関してはまったく自力である。それも不敏にしてその妙味を発見したのはたいへん遅かった。出しの利いたお澄しの味は子供の舌にはなかなか分らないのである。  少しそのことを思い出してみると、私は中学生の頃にせっせと漱石全集を読破して、やがて旧制の高等学校にはいった。そこで熱中したのは、詩の分野は一切省略するとして、芥川龍之介、泉鏡花、永井荷風の三人である。念のために言えば私は漱石を卒業したわけではなく、ただ興味の対象が移っただけで、その移りかたにも微妙な内的必然があったのだろうと思う。或る人の読書体験は眼に見えぬ糸でつながっていて、決して出たら目に動いて行くのではあるまい。だからこの三人の小説家の取り合せにもそれなりの理由はあるのだろうが、とにかく私は熱中し、熱中する以上は全部を端から読むつもりだったから、青年の読書力というものはまったく旺盛である。その三人を読み終えると、それぞれからまた別の糸に引かされて、私は更に広い読書世界へ出て行ったが、龍之介と鏡花とは暫く措くとして、荷風が私を導いて行った先は、その師の森鴎外だから順序が逆さまと言わなければならない。  荷風はしばしば鴎外への尊敬を露《あらわ》にしているが、中でも「麻布襍記」に収められている「隠居のこゞと」は、鴎外晩年の史伝と歴史小説とについて詳しい。しかし何よりも決定的な讃辞は、昭和十一年、岩波書店が刊行する鴎外全集(著作篇)の内容見本に書かれた「鴎外全集をよむ」であろう。箇条書で八箇条ほどあるうち、三つだけ引く。 「一、小説をかく時、観察の態度をきめようと思ふ時は雁と灰燼を読返す。既に二十回くらゐは反復してゐるでせう。 「一、文学志望の青年で、わたくしの意見をきゝに来る人がゐると、わたくしは自分の説など聞くよりもまづ鴎外全集を一通りよんだ方がよい。その中で疑義があつたら、それについて説明しようと、わたくしはいつも答へてをります。 「一、文学者にならうと思つたら大学などに入る必要はない。鴎外全集と辞書の言海とを毎日時間をきめて三四年繰返して読めばいいと思つて居ります。」(原文ノママ)  岩波版のこの全集が出始めた当時、私は旧制高等学校の三年生で文芸部委員をつとめていた。幼稚きわまりない小説を書いていて、大いに荷風に私淑していたから、この内容見本の荷風の言葉は肝に銘じた筈である。しかしどうも「大学などに入る必要はない」というところは励行しても、鴎外全集と言海とを毎日読む方は励行しなかった。というのは、私は翌年の大学の入学試験には物のみごとに落第したが、この時鴎外全集を予約した覚えはなくて、どうもお金がそこまで廻らなかったようである。戦前に刊行された漱石全集荷風全集芥川龍之介全集鏡花全集はどれも揃えて持っていながら、鴎外全集だけは見過した。つまりは荷風の説得にも拘らず、その忠告に耳を貸さなかったということになるのだろうか。当時の私にとって、鴎外の文章よりは荷風の文章の方が入りやすく、また荷風の文章よりは横光利一川端康成の文章の方が新鮮だったのかもしれない。  私が鴎外全集を購い、また鴎外の著書を集めてせっせと読むようになるのは、戦後になって物を書き始めてからのことである。それにつけても、この内容見本に書かれた荷風の説得力は大きい。推薦文というのは、推薦するときめた以上、あれくらい猛烈に肩を持つべきものだ。思えば私は、確かにその時荷風に導かれて鴎外に入門したので、ただ悟るまでに時間がかかったというだけである。もし今、文学志望の青年が現れたら、私もまた荷風の驥尾に附して、鴎外全集を一通り読めと忠告するだろう。いな文学を志望すると否とに拘らず、日本語の美しさを、特に散文の美しさを味わうためには、鴎外に即くのが一番の捷路だと言うだろう。鴎外には文語体から口語体まで、理詰めの表現から情緒の描写まで、柔から剛まで、およそあらゆる見本があり、それを読んだだけでこちらの文章がよくなるという特効がある。  ところで昔の話に戻ると、私は全集は買わなかったが鴎外の著作を読まなかったわけではない。有名なもの、簡単に入手できるもの、面白そうなもの、それらの種類の作品には眼を通していたに違いないが、遺憾ながら、それだけでは熱中していたことにならない。熱中するというのは全作品を、もし全集があれば全集を、必ずや読破することを指すのである。とすれば初めに書いた好き嫌いの区別から言えば、私は鴎外を、これは身体のために滋養になるなとは考えたが、毎食用いることをしなかった、と言えるだろう。荷風のせっかくの忠告も、ためになるの一点張で面白さを宣伝することを少々怠っていたのではないかと思う。  それというのも、鴎外ぐらい百科全書的にあらゆる分野にわたって書き、それがいちいち面白いという作家は、ちょっと他に見当らないからである。その点、鴎外は漱石よりも間口が広く、百花繚乱の趣きがある。漱石の作品はすべて漱石の分身だが、鴎外には魂は他人で容貌外見は鴎外そっくりという、つまりは翻訳のことだが、特別のおまけさえたくさんついていて、この翻訳がまたどれほど日本語の表現力を豊かにしているか分らない。私はその昔荷風の忠告を聞いて鴎外を勉強しなかったことで、一人前の文士になるために随分長い道程を無駄に歩いたところがあると思うが、一読者としては、愉しみを後廻しにしたのだと負惜しみでなく考えている。実際今の私はちょっと暇があって、しかも単に暇潰しというのではなく実益をも兼ねたいと欲張る時には、鴎外全集の任意の一冊か、縮刷版の大言海かを開いて、拾い読みをする。どちらも滋養があって美味である。  さてまた昔の話に戻ると、私は鴎外全集は買わなかったが一応の作品は読んだ。読んで敬服した作品はいろいろあるが、その中から三冊の本を選んで感想を書きとめておく。 「水沫集」は青年が必ず手に取る本で、「即興詩人」ほどの人気はなかったかもしれないが、その影響は甚大である。何と言ってもこの中には雅文体の創作「うたかたの記」「舞姫」「文づかひ」が含まれているし、それが翻訳の「埋木」とか「玉を懐いて罪あり」とかと微妙な均整を保っている。私は白いクロース装で背に水色の波形模様のある縮刷版を、よくポケットに入れて歩き、ツルゲーネフの「該撒《ケエザル》」などを諳誦した。しかしヴァラエテイに富んでいる点では後年の「諸国物語」に及ばず、浪漫的味わいに於て「即興詩人」に及ばずとすれば、翻訳集としての「水沫集」の値打は、附録の「於母影」にありと言うべきだろう。  近代詩の成立に与って力のあった訳詩集として、一般に「海潮音」「珊瑚集」「月下の一群」の三つを挙げるのが普通だが、私は「於母影」を逸してはならぬと考えている。「於母影」は新声社同人の翻訳ということになっているし、全部で二十篇に充たず、しかもその中には漢詩の形をしたものも幾つかある。実質はきわめて乏しい。それに単行本として世に出たこともなく、明治二十二年に「国民之友」に発表された後は「水沫集」の附録に収められただけだから、とかく軽く見られやすいが、詩の翻訳という問題を考えれば、いち早く本質に肉薄していたのではなかったろうか。「於母影」の訳詩はすべて意、句、韻、調、の四種類に分けられ、最も複雑な「調」は、「従原作之意義字句及平仄韻法者」というのだから、その野心は並々でない。ついでに言えば私は戦争中に友人たちと定型押韻詩というのを試み、その一方で同じ方法を用いてボードレールの詩を訳そうと考えたが、その時思い当ったのはこの「於母影」の実験だった。私の押韻訳もまた原作之意義字句及平仄韻法に従うものだったから、私はおくればせに鴎外に師事したわけである。  次の一冊は岩波新書の「妻への手紙」である。これは昭和十二年に出た。恐らくこの一冊ほど、その当時までの鴎外のイメージを覆したものはあるまい。鴎外森林太郎は謹厳剛直な軍医総監であり、傍観者であり、「概して dionysisch でなくつて、 apollonisch な」作品を書いた人物である。しかるに「妻への手紙」に現れる人物は、自分の細君を、お前さん、お前さん、と呼んで、実に甘たるいことを言っている。少々滑稽な位である。写真がほしいと口説いて、さて写真が来ると「まあ、大へんにわかくおなりだね。そしていつもの写真よりはひどくやさしいかはいらしい顔をしておいでだね。」などと書く。およそ鴎外の内部にある人間性の美しさが、その諧謔味を含めて、ここに流露している。本来こういう書翰類は、全集について見なければならないもので、それが普及版の新書で出たというのは大いに有難かった。私は漱石や龍之介の書翰集を愛読していたが、鴎外のこれらの恋文的な通信文を見て、自分も早く結婚してこんな手紙を書いてみたいと、ふと考えた位である。  さて三冊目は、これは戦後間もなく私が療養所で呻吟していた頃のことだが、友達の加藤周一に頼んで、彼の蔵書から鴎外全集の一冊、大冊の「椋鳥通信」を貸してもらった。恐らくは加藤医師の診断、退屈病には打ってつけの妙薬というので、彼が見立てたものであろう。これは御存じの如く、ドイツの新聞記事によるヨーロッパ文壇情勢の紹介であり、その面白さは一種独特で、他に比較するものがない。登場人物はこちらの知っているような偉い文士ばかりとは限らず、大小さまざまの事件がぞくぞくと繰りひろげられる。結局は文体なのだろう。ただの新聞記事と違って、つまりは鴎外の学識が簡潔な文体に滲み込んでいるとでも言う他はあるまい。本が些か重たかったことをのぞけば、これは回復期の病人に打ってつけの、無尽蔵に興味深い書物で、私の内部で殆ど「今昔物語」と肩を並べていた。そして私はこの本を加藤に返す時に、療養所を無事に退所する日が来たなら、必ずや昔買いそびれた鴎外全集を手に入れるぞと、固く心に誓ったのであった。 [#地付き](昭和四十六年十月)     プルースト百年祭  二十世紀前半のフランス文学を代表する作家を年齢順にあげるとすれば、まずクローデル、ジイド、プルースト、ヴァレリイの四人ということになろう。この四人は踵《きびす》を接して生れていて、年に大して違いはないが、そのうちクローデル、ジイドの百年祭は三年前と二年前とにすんで、今年はプルーストとヴァレリイとが百年祭を迎えた。この生誕百年祭というのはどうも外国だねの記念事業で、我が国ではあまり問題にしないようである。例えば我が国の方でも、今年は国木田独歩、田山花袋、徳田秋声などという文学史上重要な作家たちの生誕百年に当るが、それに因んで格別の行事や出版が行われたことを聞かない。もっともフランスの方の二人も、プルーストについては、イリエやパリで記念の行事が催されたことは現地に赴かれた井上究一郎氏が報告されているし、プルースト研究の単行本も目白押しに出ているが、ヴァレリイに関してはまだそれほどのことはないようである。一つにはプルーストの誕生日は七月十日で、ヴァレリイの方は十月三十日だから、まだこれからのことなのかもしれない。但し、ヴァレリイは生前既に栄光の絶頂にあって、プルーストのように死後になって名声を獲得した作家ほどには、今日人気がないのかとも疑われる。上にあげた四人のうち、戦前の一九三〇年から四〇年にかけての人気ではプルーストはびりだったろうが、戦後久しくなった現在では第一位は間違いなく、文学的成果という点でも、恐らくその地位は動かないだろう。  私は何も人気投票じみたことを言っているわけではないが、プルーストが一九二二年に死んでから、徐々にその地位を高めて行く光景は壮観という他はない。プルーストは一生かかって「失われた時を求めて」というただ一つの小説を書いた。但し御存じのように大層長くて、戦後普及版で十五冊、プレイアド版で三冊である。彼はその上厖大な量の手紙を書き、コルブ教授の新編集による書翰集は、その第一巻が昨年出版されたが、全部で十冊になるらしい。そしてプルーストの手紙は、要するに彼の小説の自作自解、もしくは宣伝と考えることも出来る。ということはプルーストの生前、彼の小説は一般に誤解の対象であり、その誤解が解けて真価が認められるようになるためには、それだけの長い時間が必要だったし、プルースト自身もそのことを覚悟していたのであろう。  プルーストの年譜を見ると、この人は死後もなお生きているという印象を強く受ける。死の床にあっても校正刷に手を入れていたという彼の小説は、死後五年経って漸く最終巻が刊行されたが、この「失われた時を求めて」の最初の形態である「ジャン・サントゥイユ」三巻は、一九五二年(死後三十年目である)に初めて活字になった。次いで別の原型である「サントブウヴにさからって」という評論的小説が、一九五四年に公刊された。更に「失われた時を求めて」そのものが、新しい編集校訂によって面目を一新し、同じ一九五四年にプレイアド版で出版された。プルーストの書いたおびただしい手帳や草稿の類は、まだ活字にならずに眠っているから、謂わばプルースト研究はこれから本格的に始まると言ってもいい位である。  というようなことを述べたが、私はプルーストの専門家でも何でもない。恥を忍んで打明ければ、私はこの大長篇のうち、初めの方の四分の一ぐらいを読んだにすぎない。しかも私にとって、これほど大事な小説は他にないとも言えるのである。私が大学生の頃、フェルナンデスの編集した青い紙表紙の「選集」が出ていて、「失われた時」の中の重要な挿話を知るのに便利だった。そして私はこの重宝な「選集」によって全体を想像し、全篇を読む愉しみを先へ先へと引き延していたらしい。私の友人中村真一郎のように学力もあり根気もあれば、通読することも可能だろうが、私みたいな怠け者はどうも「選集」ぐらいでお茶を濁すところがあった。それも今日までお茶を濁して来たというのは、我ながらあんまりである。  しかしここで少し開き直れば、プルーストのこの長篇小説を読み通した人は、専門家を別にすれば、それほど沢山はいないだろうと思う。第一に翻訳に乏しい。淀野隆三訳が久しい以前から行われているが一部にすぎず、全訳としては新潮社から出たものしかない。あれは個人訳ではなかったから統一の面で欠けるところがあり、それに絶版になったらしくて手に入れることが出来ない。つまり一般の読者は初めの部分だけ読まされて、続きのところは昔の私のように想像で補うほかはない。選集のようなものは出ていないようである。井上究一郎氏が全訳を試みられると聞いているが、それが一日も早く達成せられて、プルーストが我々にとってもっと身近になることが、まず第一に望ましい。  しかし、ともう一度繰返せば、にも拘らず私に於て、また多分私以外にも、プルーストの影響は実に大きいのである。私は独歩も好き、秋声も好きだが、プルーストほどの影響を受けた覚えはない。「スワン家の方へ」の第一部「コンブレー」は、全体のほんの序曲にすぎないが、当時その部分を熟読しただけでも、私にとって新しい小説の方向は明示されていた。この道標に従って歩み出した文学志望者は、ひとり私ばかりではなかっただろうと思う。予告篇がこれほど面白い以上、あとを読まないのは愚の骨頂だし、おまけに作者が別の方向から、「サントブウヴにさからって」というような予告篇まで書いているのである。我が国の新制大学はフランス文学科の学生をたくさん養成しているから、プルーストやヴァレリイ(これはまた別の愉しみである)を読む人が、この百年祭を機に一人でも多くなるようにと私は願う。私もまた、かねての愉しみをそろそろ実現させなければと考えている。 [#地付き](昭和四十六年十月)     マチネの亡霊  昔の亡霊は容易に死なないものだという感を深くしたのは、先日、何かの雑誌を見ていたら若い批評家の対談の記事があって、その一人が、近頃の若い小説家の小説が難解であるかどうかという話の続きに、分らなくてもいいものもあればそうはいかないものもあるということの比喩に、例えばマチネ・ポエチックの詩とポール・ヴァレリイの詩とのようなものだと説明していた。そのあと御丁寧に「笑」とあったから、相手の批評家も同感だったに違いない。もっとも私はその雑誌を手許に見ながら書いているわけではないから、原文と違うなどと文句をつけられては困る。しかし間違えようのない趣旨であったと記憶している。  私は今さらマチネ・ポエチックの擁護、或いは自己弁護をしようと思って書いているわけではない。あれは若気のあやまちかもしれぬ。従ってヴァレリイと比較してもらったのは大変光栄だった。しかしヴァレリイの詩が考えさえすれば分るものなら、マチネの詩なんかこれを解読するのは極めて易々たるものだろう。殆ど読んで一睨みすれば分ると言った代物だろう。そうすると件の批評家が分らなくてもいいものの喩えにマチネの詩を持ち出したのは、おつむの出来が弱いことを証明したことになるのだろうか。  まさか。この頃の頭のいい若手批評家が、それこそ難解な現代詩や現代小説を次々に読破論評する勢いを見れば、マチネの詩如きが分らない筈はない。と考えて、私ははたと気がついたのだが、つまり彼はマチネの詩などというものを見たことも読んだこともなく、当時の(思い返せば戦争が終って幾年も経っていなかった大昔のことである)かまびすしかった罵詈雑言の方だけを覚えていて、要するに唐人の寝言のようなものだと片づけたのであろう。  マチネ・ポエチックの定型詩、——今になって思い出しても頭が痛くなるほどである。よくまあ口を揃えて悪口を言ってくれたものだと思うが、しかし本気で読んだ上で悪口を言った人が、果して何人いたかしらん。短い詩型だから素早く読めるとは限らず、文体が不調和だとか、漢語が多すぎるとか、語呂合せにすぎんとか、つまりは末梢にこだわって、言葉の奥に一歩でも踏み入った批評にはついぞお目に掛らなかった。そしてその頃、私たちでさえも実作はしていても詩の exegese についての方法論は充分に弁えていなかった点を認めるとすれば、無理解だと人を責めるわけにはいかなかっただろう。  しかし現在ではマラルメにしてもヴァレリイにしても、さまざまの註釈が試みられ、比較的に接近が容易になった。しかし、それだから理解しやすくなったとは必ずしも言えないかもしれない。こうした大詩人を持ち出せばまたまた夜郎自大だとそしられそうだが、マチネの詩なんか実にやさしい筈のものだから、一つ誰か真面目に読んで、真面目に註釈してみてくれないだろうか。私自身にしても、あの頃書いた定型詩は意識と無意識とのアマルガムで、精神の内部を閃光で照し出すような何物かを持っていた筈だ。そんな閑人はいないとなったら、いっそ自分で註釈をやってみようかと考えないでもない。私にしても中村真一郎にしても、我々の出発点には一冊のマチネ詩集があったことを、決して忘れてはいないのだから。 [#地付き](昭和四十六年十一月)     学者の幸福  鈴木信太郎先生が亡くなられてから早くも三年が過ぎたが、たまたまその命日を迎えて先生の著作を繙《ひもと》いていると、先生の一生は幸福な生涯の見本のようなものだったとしみじみ感じるのである。もとより人の一生はそと見にはどんなに為合《しあわ》せそうに見えても、内に多少の辛酸を嘗めなかった人がいる筈もないが、先生の場合にはおよそそこに保留をつける必要がないように思われる。先生御自身も、中央大学に於ける最終講義の筆録を見ると、「このやうにして好きな研究と言ふか楽しみといふか、一生勝手なことをしてこの最終講義までいい気持で暮らして来たのであります。」と述べられている。私はこの講筵に列したわけではないが、恐らく満場の諸子はこの時一斉に首を振って頷き返したことであろう。というのも先生が自ら「いい気持」で達成された学問的業績からは常に一種の雰囲気が漂い出て、先生の言容に接しているうちにいつしかそれに感染し、何だかこちらまで先生の幸福に与っているような気がしたものである。それを分析すれば、自分まで学者のはしくれのように錯覚して、やれやれとばかり我に返ったというようなことである。  私は全集第五巻の随筆集を幾日もかかって読み直したが、その印象はつづまるところこの流露せる幸福感という点にある。先生は神田佐久間町の米問屋の生れで「下町風旦那の教養」を身につけていられた。財産がなければ学問が出来ないということはあるまいが、下町的教養とはつまり江戸末の爛熟した文化の名残で、それがそもそも幸福の始まりである。自伝風の随筆の数々によって、先生の御家族をはじめ、恩師、友人、弟子たちのプロフィルを順々に紹介されると、よくまあこれだけの恵まれた環境に生を享けたものだと思うが、本当はその逆で、先生という好運の星のまわりに、それぞれの星宿がおのずから来り輝いたと見るべきかもしれない。従って先生が生活を語る時に、その生活が明瞭な美的軌範によって貫かれているのは当然である。米問屋の若旦那だから米のめしに詳しく従って美食家でありフランス料理にも通であったのと同じ寸法で、もともと日本語及び日本文学に精通した日本人であったから美食がフランス文学にまで及んだと言うべきである。趣味として篆刻とゴルフ、いずれも高尚にして実力相伴う。もっとも私はゴルフを嗜《たしな》まないから先生の受売りだが、篆刻は素人芸などというものではあるまい。先生が芸術院会員になられた時に、私の友人の一人はその報知を聞いて、学士院の間違いじゃないのかと言ったあと、膝を叩いて、そうか篆刻だな、と叫んだ。私も同感である。  こういうふうに随筆集を見ただけでは、先生の幸福は何となく好事家のそれ、文人のそれと思い違いをする懼れがある。決してそうではない。先生の幸福は学者の幸福であり、その生活は懸って学問の蘊奥をきわめるためにあった。そしてその学問、フランス文学とフランス語学との多くの業績のうちで、私はやはりマラルメ研究を以てその代表とみなしたい。恐らく先生が一生を通じて最も親しく交際し、夢寐《むび》にも忘れられなかった意中の人は、家族でもなし友人でもなし、この異邦の詩人以外にはなかった。実にこれだけ惚れ込むとは、惚れられた相手のマラルメにとっても、こんな光栄至極のことはあるまいと思う。  今でこそマラルメ研究は隆昌をきわめて、論文評釈の類は欧米でぞくぞく出ているが、先生がマラルメ研究の先駆者の一人であったことは年譜を見るまでもない。先生がマラルメに関りを持たれたのは一九二〇年代の初めであり、私は一九三〇年代の末に一学生として先生のマラルメ伝の講義やマラルメ詩の演習を聴講したが、教室にあって学生一同を圧倒したものはその恐るべき自信と気魄である。マラルメのことは私に聞け。怠け者の学生がせっかくチボーデやスーラを調べて行っても、そんな説もあるな、と先刻御承知。当方の珍説を開陳すれば、にっこり笑われてそれでおしまい。従って、調べがつかなかったので本日休講との電話が研究室から教室に取り次がれても、学生はせいぜい「素白《そはく》の衛守《まもり》固くして」今日はお休みか、などと呟くばかり、学者というのは大したものだと心《しん》そこ恐れ入った。  先生は森鴎外直伝と称して、睡眠時間を何時間だか減らして学問に専心せられた。そのあまった時間を「勉強」のためのみならず「人生の遊楽にも充当した」と随筆に書かれているが、先生にとってマラルメ研究は「遊楽」以上に心たのしいものだったに違いない。私は学生の頃先生に向って、どうして御自分では詩をお書きにならないんです、と失礼な質問をしたことがあるが、先生はその時にっこりして、君、マラルメよりうまくは書けないよ、と言われた。  先生のマラルメ学は、謂わば外堀を埋めてから内堀に及ぶという正攻法だった。外堀に当るものは「ステファヌ・マラルメ詩集考」で他に比肩するものもない。私たちが講義で聞いたマラルメ伝は、恐らくモンドールに一歩を先んじられたためか遂に日の目を見なかった。これはモンドールに地の利があるのだから、やむを得ない点もあった。その代り内堀にも相当すべき評釈のお仕事を年来待望していたが、最早見ることが出来ない。それが私たちには残念至極である。しかし先生にしてみれば、詩の翻訳が完成した以上註釈なんかは要らないという御意見だったのかもしれない。  私のように片手間に好んでマラルメを読んでいても、マラルメ詩は深く、窮めがたく、難解である。またその人物も、謎めいていて、神秘的、魅力的である。早くからこんな面白い研究対象を発見して、殆ど完全なまでに文献を取り揃えて、夜ごと研究を重ねてしらしら明けに及ぶとなれば、これが愉しくなければどうかしている。そういう「勝手なこと」を一生続けられ、しかもその他にもたくさんの業績があり、また「人生の遊楽」ということもあっただろうから、先生の一生を幸福な生涯と規定しても、泉下の先生からまさか叱られることはあるまいと思う。 [#地付き](昭和四十八年三月四日記)     等身大      ——内田百の文学——  その本人を識っていて著作を読むのと、本人を識らずしてただ著作にのみ親しむのとでは、読者の理解に多少の相違があるだろうとは誰しも考えることだが、一般論として本人を識っている方が読者にとって有益かどうかは疑問である。文士には韜晦趣味があって、実際の本人を、それに象《かたど》って書いた作中人物よりももっと奥行のある人物のように思わせて、何となく読者を煙に巻きたい気持が働くものらしい。従って本人に会ってみれば幻滅、平々凡々の人にすぎなくて、著作とはまるで印象が違う場合も多いに違いない。もっとも近頃は宣伝ばやりで、文士もやたら公衆の前に素顔を見せるようだから、御高説をうかがえば芸人なみに面白いこともあるかもしれないが、顔を知ったから著作も面白く読めるようになったとはなかなか言えないだろう。私などは古風に出来ているらしく読者に素顔を見せるのは真平で、相成るべくは著作だけのことにしてもらいたい。日没閉門、日の出閉門、人の顔なんぞは見たくない。  最初から何を言っているのか我ながら心もとないが、つまり私はひそかに敬愛した内田百なる人物に一度も会ったことがなかった、しかしそれを嘆くには当らない、と言いたいのである。百先生が簀《さく》を易えた以上最早会えないのは当り前だが、これが同じ故人でも漱石鴎外なら一度は会ってみたかったと思うし、芥川龍之介永井荷風でもちょっと話を聞きたかったと思うのである。しかし百さんに限りそうは思わない。その理由は、百文学は謂わば作者による自己紹介の文学で、わざわざ御本人に会ってこちらの眼で確かめなくても、どんな人物かは夫子自らがその眼で確かめその筆で示しているところによって詳しい。勿論百さんには人並はずれた韜晦趣味があるが、韜晦は作者のみならず公平に作中人物にまで及んでいて、実在せる百と書き上げられた百とは寸分違うことのない同一人物である。つまりこれは等身大の文学だというのが私の着眼なのである。  世に私小説というものがあって昔も今も議論がかまびすしいが、百さんが槍玉にあがった例を聞かない。それはつまり百文学は私小説ではないからである。百さんの領分は多くは随筆で、随筆は誰しもおおむね私随筆だが、百さんの私随筆は私小説的な内容を多分に持ったものなのに世の私小説とは雲泥の相違がある。それは何故かと見れば、第一に「私」の魅力が違う。清濁併せ呑み、悲喜こもごも至り、ユーモアの底にあたたかい情愛が醸されている。魅力のない人物が、彼の私生活に生じた「波瀾」をもとにして小説を書く時は、波瀾が面白ければ読ませもしようが、ひと度波瀾が過ぎてしまえば元の木阿弥で、残るものは「心境」にすぎない。百さんの場合はそもそも「心境」が面白いので、「波瀾」のあるなしに関らない。その心境の由って来るところには色々とあるらしくて、その総和が「私」なのである「私」の出来が少々違っている。  理由の第二は勿論文章である。文章というのは曖昧な言いかただから、どこがどういうふうに素晴らしいのかは例をあげて説明する他はないが、面倒だからやめにしたい。ただこういうことは言えると思う。百さんの文章は一寸の物は一寸に描く。六尺の物は六尺に描く。大きくもしなければ小さくもしない。それでいて測ることの出来ないものは、刻々にそれがふくれ上って行くように描く。その辺の呼吸はえも言われない。  そこで作者と作品という両者の関係を考えてみると、私小説に於て、作者(私)は作品中の「私」を決して等身大には書いていないのである。書いていないのではなくて書けないので、必ず実物よりも小さくなる。それはあながち力量の問題ではない。いくら作者が目玉を光らせても、「私」の背中までは見えない道理だから、周囲のいやに細密な描写の中に、影のうすい人物(私)がふらふらと漂うことになる。そこに不足しているものは当然想像力であり、作者の想像力がうまく働いた場合にのみ目玉は「私」の背中をも見通せるだろう。(もっとも虚構の小説では、実物よりも大きく写そうとして、かえってピンボケになることが多い。)百さんの文学が等身大に「私」を写し出すことが出来るのは、つまりは真実を描くために遠慮なくフィクションを採用しているという、この一事で説明される。その一例として、人から狐をもらったので、檻に入れて縁の下で飼うという二頁にも足りない随筆(「葉蘭」)がある。眼目は夜中に「葉蘭の葉つぱが薄い光を放つてゐる」さまを描写することにあり、そのためにはこの狐を必要としたと夫子自ら「作文管見」という講演の中で説明しているが、こういう大胆な虚構に百文学の真骨頂が潜んでいるのではないか。  ところで右の例は、平山三郎著「実歴阿房列車先生」の中に挙げられていて、私もこの講演筆記をつい読み落していたから出所を明かにしておく。この本の他にもう一冊「百鬼園先生雑記帳」というのもあって、平山さん著すこれら二冊は、内田百なる人物をそれこそ背中から写したもので、私のようなすれた愛読者が百著作の次に繰返し読むものである。私が実物大などと称して、百さんにお会いしなかったことをさして嘆くに当らないなどと力むのは、百さんの随筆で表側から、平山さんの著書で裏側から、師弟交驩の図を充分に承知しているからに他ならない。そこで私は、もしや私が御前に伺候したとすればどのような問答が取り交されたことかと空想し、一人にやにやと愉しむのである。 [#地付き](昭和四十八年三月)     モリエールの訳者  モリエールについては他に書く人もあるだろうから、私は「モリエール全集」の訳者である鈴木力衛氏について書いてみたい。鈴木力衛氏などとしかつめらしい呼びかたをすると、如何にも大学教授らしくモリエール学者らしい感じはするものの、私にはこれではよそよそしい。いや私に限らず彼を識っている人たちにとって、この人物は力衛さんであって鈴木教授でもなければ鈴木さんでもない。このことは我が国のフランス文学界には鈴木信太郎という長老がいるので、自《おのずか》ら両鈴木を区別する必要を生じたためかとも思われるが、私にはどうも彼は昔から、既に学生の時分から、この粋《いき》な名前の力衛さんだったような気がする。もっとも私はだいぶ後輩だから学生時代のことは知らないが、私が大学を卒業して、初めて親の家を離れて本郷の竜生館という下宿専門の宿屋に住み込んだ時に、そこを紹介してくれた独文出身の友人が、この部屋は竜生館きっての最上等の部屋で、今まで力衛さんが陣取っていたんだが今度結婚するとかで引越したんだ、と言った。二食賄つきの立派な座敷で、間代はたしか月四十二円、私の初任給の月給半分ぐらいは吹っとんだが、力衛さんなみに出世したような気がして些か背が伸びた。その頃から力衛さんはいろいろと有名な人だったようである。  私が力衛さんと親しく附き合うようになったのは、それから十年以上も経って、戦後学習院が機構を改革して大学になってからのことである。力衛さんはそれ以前から学習院高等科に教鞭を取っていて、院長安倍能成の信頼が厚く、学習院が大学に昇格した際には安倍さんの相談役の一人だったのだろうと思う。私は長いことサナトリウムで呻吟していて、前途暗澹としていた頃に、学習院大学の仏文科の教師に採用してもらえないかと力衛さんに頼み込み、やっとのことでサナトリウムを退所することが出来た。半病人が人並に月給を取れるようになったのは、まったく力衛さんのお蔭である。それから毎週二日か三日は研究室で顔を合せて、いつのまにか二十年が経ってしまった。  何も綺麗ごとばかり言って力衛さんをおだてる気はないものの、彼の印象は初めの頃とこの頃とではだいぶ違って、この頃では学者の鑑《かがみ》かとも思っている。というと昔は大したことはなかったようだが、昔はこちらが未熟で、力衛さんの力衛さんたる所以が分らなかったのである。私は人見知りをするたちで、すっかり馴染むまでには時間がかかる。力衛さんの才気煥発に眩惑されて、とても歯が立たないと思い込み、敬して遠ざけていた。しかし彼は何にでもよく気のつく親切な人物で、そんなことは百も承知、私の前でわざと芝居をしていた傾きがあった。つまり彼の方も本当は小心で、照れ屋で、神経質なものだから、私のような扱いにくい人間を前にすると、恰もモリエール劇中の人物の如く、陽気にふざけちらしていたような気がする。私がアルセスト然と構えていると、彼はスカパンを気取るのである。当意即妙、彼ほど面白おかしい白《せりふ》が次から次に出て来る人物を、私は他に知らない。どんなに当方の機嫌が悪くても、最後には思わず吹き出す。私が大学の研究室にいそいそと出掛けるのは、厭な講義をすませたあとで力衛さんの漫談を聞くのが愉しみだということもある。フランス文学の専門的知識から俗事万端に至るまで、力衛さんの舌にかかるとこれがみな喜劇の長ぜりふの如く聞える。私はモリエール劇についてはまったくの素人だが、力衛さんの翻訳はその神髄を伝えるものだろうと思う。というのは彼は日常茶飯に於て、軽妙なる白《せりふ》を常時発明しつつあるからである。  私が力衛さんに対する誤解を完全に解いたのは、ブロットと呼ばれるフランスのトランプ遊びを私が習得して、一緒に遊ぶようになってからのことだ。つまりそれまで観客として眺めていたのが、自らもファルスを実演するようになったと言える。ブロットは三十二枚のカードを用いて四人でやるゲームだが、フランス語の小むずかしい数詞を使って寄せ算やら引き算やらをしなければならず、フランス語の教師たる者がブロットによって数詞の勉強をするのは理の当然という大義名分がある。従って研究室で放課後に勉強しても、文句を言われる筋はない。大の男四人が晩めしを食うのも忘れて夜更しをし、そのあげく細君連から、たかがトランプでこんなに遅くなる筈はない、と全然信用してもらえなかった例が幾つかある。そのブロットに病みつきになってから、やっと力衛さんの本領が分って来た。  力衛さんが遊び人であることは夙《つと》に有名である。若い頃はさぞもてただろうが私はその方面のことは知らない。しかし昔力衛さんにこういうことを教わった。君、サクラのサ、フジサンのフ、というのをフランス語でどういうふうに言うか知ってるかい、と訊かれて、勿論知らないと答えると、立ちどころにAからZまで並べたてた。    A comme Andree    B comme Berthe    C comme Cecile    D comme Denise  あとは忘れたが二十六人みな女の名前なのである。正式な言いかたでは男名前の方がはるかに多いらしいから、これはどうやら力衛さんの創作ではなかろうか、それとも彼がフランス留学中に識り合った女の子の名前ではなかったかしらんと疑うが、深追いはしない。  その遊び人の力衛さんは、麻雀やブリッジではうますぎて相手がいないそうである。将棋も相手不足らしく、研究室の連中ではまるで歯が立たない。結局はブロット位しか出来るゲームがないので、これは二人ずつ組むから腕前が平均化されるが、それでも力衛組は殆ど確実に勝つのである。しかも力衛さんは全力をあげて、かつ心から愉しんでゲームをするから、その雰囲気がたいへん気持よい。つまり彼は自分が愉しみたい時には、それと同じくらい他人をも愉しませねばやまない。力衛訳のモリエールが読んで面白いばかりでなく、すぐにも板《いた》に掛けられるのは、読者をも観客をも愉しませようという力衛さんの殆ど先天的な思いやりの産物である。  力衛さんの遊び人ぶりはどうやら演技らしいところもあって、うかうか騙されては損をする。彼ほどの勉強家はざらにはいない。何しろ頭の廻転も早ければ仕事をする手も早いから、どんなに遊んでもけじめを忘れることは決してない。研究室の連中が揃って旅行をした際に、彼は毎晩夜中すぎまで若い諸君と附き合っていながら、朝まだきに一人こっそり起きて日課の翻訳をしていたそうである。たまたまそれがばれてしまったら、彼は大いに照れた。よく学びよく遊ぶ力衛さんが、そうしてこつこつと二十年も三十年も取り組んで来たモリエールだから、何げないようなところまで実に凝っていて、私には鈴木力衛訳以外のモリエールなんかとても考えられない。  この一年力衛さんも病気だったし私も病気をしていて一緒に遊ぶこともなかった。しかしその間にも「モリエール全集」の仕事を着々と進行させていた力衛さんのことだから、私も元気になって、早く一緒にブロットをして遊びたいものである。切に加餐を祈る。 [#地付き](昭和四十八年四月)  追記 私がこの原稿を書いた二月後の昭和四十八年六月十四日に、力衛さんは亡くなられた。「モリエール全集」の月報のために書いたこの随筆を読んで、力衛さんは大層悦んでくれたものの、何だか追悼文みたいだと持前の皮肉を洩らしたそうである。私はそれを人づてに聞き、我が文章の至らぬことを嘆いた。決してそんなつもりではなかった。思えば、人から褒められた時に、照れて皮肉を言うのは力衛さんの癖だった。せめてそのことを思い出して、自ら慰めたい。しかし力衛さんはその時既に、長からぬ命であることを承知していたのであろうか。 [#地付き](昭和四十九年八月)     源氏物語と小説家  源氏物語のような古典は、作品それ自体が微妙な息づかいによって呼吸しているから、読者の方の成長に従って作品も次第に大きく脹れて行くようである。私には源氏物語を原典によって立ち所に理解し得るだけの学力が備わっている筈もないし、ややもすれば原典を読む合間に、与謝野晶子訳や、谷崎潤一郎訳や、アーサー・ウェイレーの英訳や、また今度の円地文子さんの訳などを参照して理解に資することが多いのだが、それでも昔に較べれば、どれほど作品の偉大さに新しく眼を見開かされるようになったかしれない。国文学者や批評家にとっては、源氏物語は見事に設計された大庭園で、どのようなコースを辿ろうと隈なく経巡ってその案内図を書きあげれば足りよう。しかし小説家の場合には(と烏滸《おこ》がましくも小説家の代表のような顔をさせてもらえば)この大庭園の景観をそっくり自分のところに移してみたいという野望を、ややもすれば起させるのである。勿論神様でない限りそっくり移すことは出来ないが、自分なりに土木工事を起して、源氏風庭園を創り出すぐらいのことは出来はしないか。言い換えれば源氏物語そのものではないが、同じような小説の世界を構築することは出来ないだろうか、——そこに源氏物語がかすかに映っているような世界を。  まず思い当る小説家は菅原孝標《すがわらのたかすえ》の女《むすめ》である。「浜松中納言物語」や「夜半の寝覚」は、単に源氏物語の影響を受けた作品と言うよりは、原典に別の方向から肉薄する意図を持った作品のように見える。とは言うものの、文学史をざっと見渡したところでは、平安朝には似たような野心的作品が幾つかあるものの、それもいつしか小型化して行き、単なる源氏物語的世界の破片にすぎないような、例えば人物の設定のしかたとか、場面の心理的状況の類似とか、要するに原典の一種の通俗化にすぎない作品が流行するだけで、鎌倉や室町になるともう格別の作品も見当らないようである。ということは源氏物語の古典としての位置が定まってしまえば、物語という同じジャンルで拮抗しようとの意気込みはすっかり薄れて、和歌や謡曲やお伽草子などに影響を与えただけになってしまったのだろう。とすれば私の着眼も、代表が孝標の女一人では少々心許ない。  私が小説家の野心というようなことを言い出したのは、むかし大学生の頃に、柳亭種彦の「偐紫《にせむらさき》田舎源氏」を愛読したからである。有朋堂文庫の源氏物語に較べれば、日本名著全集の「偐紫」は国貞の挿絵が豊富に入っていて、すらすら読める代物だった。そしてこの作品は悪く言えば古典の通俗化の試みであり、また創作というよりは一種の翻案に違いないが、その発想の点では、種彦は現代小説としての源氏物語の再現を目論んだものと言ってもよいと思う。後になって谷崎潤一郎の「細雪」を読んだ時にも、私はやはり同じような印象を受けたのである。ただ種彦の場合には、谷崎さんのように翻訳をしたあとから小説に取りかかるだけの余裕がなく、謂わば両者を兼ねた作品だったから、勢い原作に較べて、あらゆる点が卑小になるという破目に陥ったのはやむを得なかった。 「偐紫」のあとで本物を読んだ時に、私は何となく主人公が疎ましく感じられて、大勢の女主人公たちに同情的だった。その理由は、どうも種彦作の主人公が虫の好かない人物だったので、本物の方も毛嫌いした気味があったかもしれない。いな、それよりも当時の私が若かったから、挿話ごとに、夕顔や若紫や空蝉や玉鬘などの女性群に眼が眩んで、光源氏に対して多少の嫉妬を覚えていたのかもしれない。これは冗談である。要するに細部ばかり見ていて全体の太い線が見えなかった。そして私が原典に親しむことで次第に理解し得たのは、源氏物語はまさに光源氏の物語であるということ、これほどまでに主人公を生かし切ることは現代小説では難しいのではないかとさえ思うのである。この物語では、どの挿話も中心に光源氏という文字通りの光源があり、そこから射す光が女性の心を照し、その反射光がまた他の女性をも照す、という仕組になっている。光源氏が死んだ後の巻々でも、この主人公の透明な光はすべての登場人物を陰に陽に照し出している。この強烈な個性というものは、結局は作者の紫式部がこの人物を造型する際に持った、異常なまでの凝集力に基いているのだろうが、宇治十帖でさえも、そこに不在である光源氏が主人公だということは、この物語が現代小説には及びもつかぬ雄渾な運命小説としてのスケールを持つものだということを、証明しているだろう。  というわけで、小説家というものは源氏物語に対して、敬意と共に一種の敵愾心をもそそられるのである。一人の男をそれこそ「全体」として捉え、その死後の時間をも彼の時間として認識させるような小説、しかも細部では風俗として流れている時間が、全体では錯綜して一つの観念世界にまで高まっている小説、——そういうふうに源氏物語を理解することが、今の私には一番身近である。  源氏物語を翻訳することでそれに拮抗する小説を書きたくなる例は、既に谷崎潤一郎にあるから、円地文子さんも秘かにそういう野心をお持ちだろうと思う。舟橋聖一さんも、中村真一郎君も、やはり源氏物語の翻訳を手がけているから、そのうち大作を書きそうな予感がする。私のように翻訳とは無関係の単純な読者でさえも、実を言うとそういう野心と無縁ではないのである。 [#地付き](昭和四十八年五月)     川端康成の文芸時評  暮から正月にかけて風邪を引いて寝ていたので漫然と手当り次第に本を読んだが、その中に川端康成全集の文学時評を収めた近刊の第十六、十七巻があった。ついでに古い改造社版の川端康成選集第八巻をも引張り出して来て参照してみた。この方は厳密に文芸時評と名づけられるものばかりで、昭和六年から昭和十三年に至る間の時評が収められている。その昭和十三年までが今度の全集では三巻を数えている上に、更にそれから後の分がもう一巻になるそうだから、如何に川端さんがこのジャンルを沢山書いたかがあらためて首肯されるというものである。  一体文芸時評というものは時評の名の示すようにアクチュエルな性質を持つもの故、対象にされた作品が古典的名作として生き残っているのでない限り、今日の読者には何が面白くて何が面白くないのかいっこうに分らない。作者が息巻いても読者にぴんと来ないことも少くない。川端さんの文芸時評は実に丹念に多くの作品が拾われていて、しかもその大部分は既に忘れられた作品、或いは当方が読んでいない作品ばかりなのである。ではさっぱり面白くないのかと言えば決してそんなことはない。まずそこには川端さんの肉声が聞える。川端さんの好みと言ってもよい。更にその時代の空気というものが鮮かに出ている。練達の文章ということもある。  川端さんの文芸時評は一言で言うなら文壇的であって、川端さん自身も文壇的立場からの発言だと自認していたように見える。例えば水上瀧太郎の「樹齢」を評して「どこか素人臭い。文壇の文学の勘を外れてゐる。郷国のちがふ人間、時代のちがふ人間のやうに見える。」とか、「水上氏は文壇の流れなど念頭にない。また文壇の流れは水上氏の作風など頓着しない。水上氏は自己の芸術的良心に従つた結果、正しい芸術的良心に逆いてしまつたといふ妙なことが出来た。」とか(昭和九年十月)。私は当の作品を読んでいないから川端さんの説をそうかと思って読むだけだが、川端さんが文壇と呼ぶものは決して徒党を組んで仲間だけで通用する文学という意味ではない。同じ箇所にこういう説明がある。「文壇は決して死物ではない。生きものである。生きて動いてゐる。例へば、文章の用語や技巧の末節にまで、なにか共通の神経のやうなものが行き渡つてゐて、大胆な型破りは出来ず、皆が狭いプウルで泳いだり、盆栽の手入れをしたりのやうに見えるのだが、その文学的な空気とでもいふべきものは、個々の作家の力よりも遥かに強い文学の生命でもある。」従って文学的同時代性の中に共通に生きているという自覚が、川端さんの文壇ということになり、文壇に背を向けることは必ずしもプラスにはならないということらしい。私はこういう箇所を読むと、川端さんは常に(というのは文芸時評を書きつつあった間ずっと)文壇的であることを意識した上で、その文壇の中で一歩を先んじるようなふうに仕事を続けて来たという気がする。ついでに私のことを言うと、私は嘗て自分が文壇的であると思ったことはなく、寧ろ如何にしても文壇に背を向けようと願っていたのに、知らず識らずのうちに川端さん流の文壇の中を泳いでいたのかもしれないという驚きがあった。もっとも戦前と戦後では文壇の概念もだいぶ変っただろう。  さてその文壇を色々に分類して、その一つ一つに作家を当てはめて作品を論じるのが川端さんの文芸時評のやりかたである。老大家、大家、同時代人、新人と分れて、そのうちの同時代人が芸術派とプロレタリア派とに分れる。これが通常のパターンで、月によってパターンが変るのも面白い。  これらの分類を通じて、おしなべて川端さんの筆法は遠慮会釈のないものである。冷厳というのではないが、こうと信じたらてこでも動かない。老大家の作でも面白くなければつけつけ言う。つまり度胸がよくて、愛想がない。谷崎潤一郎の「盲目物語」とか永井荷風の「つゆのあとさき」とかを論じた箇所がその好例である。しかし正宗白鳥、徳田秋声、室生犀星などの老大家は御贔屓らしくて、個々の作品には悪口があっても、概して丁寧な批評が加えられている。次の大家というのは川端さんよりは年長の作家たちで、これにはどうやら点が辛いようである。但し同時代の作家たちに較べての話だが、この方は大抵は親切な眼で見守っている。もっともその底に時々きらりと輝くものがあって、それは果して皮肉なのか憐憫なのか。横光利一に対してだけは常に尊敬の念を失っていない。その他中河与一、龍膽寺雄、片岡鐵兵、中村正常などには点が甘いように見える。新人に対しては余程の作品でない限り厳しい。もっとも新人の傑作がそんなにしょっちゅうある筈もないから当然だろうが、一度褒めたとなったら全責任を持つというふうである。  従って川端さんの文芸時評は、公平無私という点に特徴があるのでもなければ、切味の鋭さに見どころがあるわけでもない。正宗白鳥や小林秀雄のように、論じた対象がすぐさま客観的評価を伴うといった性質のものではない。その代りここには文壇の盛衰が走馬燈のように映っている。月が経ち年が経つにつれて、数多い作品が泡沫のように現れては消えて行くが、川端さんはその光景を持前の虚無的な眼で眺めながら、褒めたり貶したりしている。同時代の芸術派の作家たちは、まるで川端さんにいいところを吸い取られたかのように儚く過ぎて行った。そして川端さんは実に真面目に多くの作品を読み、せっせと月旦を書き、そのかたわら、自分自身の作品をも次々に産み出して行った。文芸時評はつまりは勉強であり、一種の頭の体操といったものである。  私は病床にあって興味津々として読んでいたが、そのうちに少しずつ疲労を感じて、手を休めている時の方が多くなった。文壇的なものには毒があって、川端さんの毒に当てられたのかもしれない。或いは泡沫のような作品の流れの上に、自分の影を映して見たのかもしれない。 [#地付き](昭和四十九年一月)  [#改ページ]   ㈼    梅崎春生  梅崎春生は面白い人物だった。飄逸で気骨に富み、陽気なような、八方塞りのような顔をしていた。戦後派の中でも一風変っていて、文士という古風な名で呼ぶにふさわしかった。しかし彼の作品は、その出発の初めから折目正しい文章と私小説的発想とによって伝統の上に立つもののように見えながら、実は最も新しい実験と無縁ではなかった。彼のニヒリズムは、戦中戦後の風俗描写を通して次第に内部の仮象を剔抉するに至った。戦後を一筋に歩んだ者の記録として、梅崎春生の全集に私が読みたいものは、仮面の下に隠された彼の素顔、彼の魂の呻きである。 [#地付き](昭和四十一年五月)     夢野久作頌  昭和四年頃に改造社から出版された日本探偵小説全集の揃いを、暫く前に手に入れた。その二十巻の中には、谷崎潤一郎集とか、佐藤春夫芥川龍之介集とか(但しこの合冊の背中では、龍之介が哀れにも龍之助になっている)が含まれていて、当時の文壇にあった一種の探偵趣味がうかがわれるが、純粋の探偵小説家としてこの全集の中で見るべきものは、江戸川乱歩と夢野久作との唯二人だと言い切ることが出来る。しかし乱歩がその後大衆文学に名をなしたのに較べて、夢野久作の方は不遇だったし、その真価は少数の具眼者をのぞいて殆ど認められなかったようである。  その後探偵小説界は新人を輩出し、昭和十年前後に小栗虫太郎が現れた。そして以上の三人は、戦前に限って言えば、ずば抜けて傑出した存在であり、それぞれに一癖も二癖もある作品を残した。しかし三人のうち最も独創的な一人をあげるとすれば、私は(主観的であることを承知の上で)敢て夢野久作を選びたい。乱歩や虫太郎の幻覚が謂わば人工的、作為的であるのに対して、夢野久作の想像力はおのずから聯想につれて滾々と溢れ出す無尽蔵の源泉を持ち、そこからあの饒舌な語り口——博多弁の独特の風味によって味つけされている——に乗って、端倪《たんげい》すべからざる|あやかし《ヽヽヽヽ》の世界が生れて来る。例えば長篇「ドグラ・マグラ」、このような奇抜で底の深い魂の曼陀羅を描いた作品が、日本のみならず外国の文学にも果してあっただろうか。そこには江戸川乱歩のような猟奇性もなく、小栗虫太郎のようなペダントリイや論理癖もない。ひたすら渾沌とした中有の世界とも言うべきものが、時間空間を無視して展開する。純文学とか大衆文学とかの境を越えた、我が国では稀な神秘的な作品と言い得よう。そして彼の神秘思想たるや、短篇の「あやかしの鼓」「鉄鎚」「押絵の奇蹟」などにも共通するもので、現実のような幻のような、正気のような狂気のような世界を、およそ玄妙な驚くべき文体で、糸をつむぐように繰り出して行く。私が昔この作家に魅了されたのは、此所にはない彼方への彼の凝視のレアリテイによってであった。  と言っても私は夢野久作の作品をすべて読んだわけではない。しかも読んだのは若年の頃である。しかしその時の印象は今に至っても消えず、久しくその全作品に対して一種の憧憬の念を抱いていた。今や全集が出るというのは、世に具眼者がふえたせいでもあり、また彼の異端の文学が漸く一般の読書人にも迎えられつつあるという、一つの証拠ででもあるのだろうか。 [#地付き](昭和四十四年二月)     惜命  石田波郷が清瀬村の東京療養所に病を養っていた頃、私もまた同じ療養所に起き伏ししていた。病室も近くて廊下などで時々顔を合せ、たまには短い話を交した。思えば私は「惜命」を石田波郷と共に生きていたと言うことも出来た。たとえその人を識らなかったとしても、波郷の句は私の愛誦措く能わざるものである。しかし共に暮したという実感によって、例えば、   綿虫やそこは屍の出でゆく門  この一句はそのまま私の世界でもあった。  波郷さんが亡くなられてその全集が出ることに、悲しいような取り返しのつかぬような想いがある。その世界がこの後どのように円熟するかを見ることは最早出来なくなった。しかし十七文字にいのちを凝縮した石田波郷の足痕は、その全集に於て不滅の輝きを放っている筈である。 [#地付き](昭和四十五年八月)     荷風の道  むかし私がまだ学生でおそるおそる文学を遠眼に睨んでいた頃、永井荷風は理想的な文士のように私の眼に映った。つまり文士というものは親からは勘当され、妻子眷属を持ってはならず、売文に徹して世に阿《おもね》ることなく、妥協は一切禁物。要するにあれほど気難しく構えなければ文学の道を貫くことは出来ないのかといたく感心した。しかしまた一方海彼岸の文学などを見て、市民生活と文士の仕事とを両立させることも可能だろう、荷風のように窮屈なのは行き過ぎではないだろうかとも思い返した。私が後者の道を選んだのは、私の気の弱さ、時の流れ、運命の力といったものにすぎず、荷風の教えに背いたようなうしろめたい気持が今に残っている。  その頃から理想的な文士とは悲しいものだと思っていた。文士が世捨人、余計者、戯作者の立場である以上、一木一草にも心を動かさざるを得ない。そのような悲しみが端的にうかがわれるのは、江戸の伝統に異邦人の視点を加味した文体によって、季節の移り変りを抒情的に歌った荷風の自然描写である。自然といっても都会人荷風は都会の片隅に残された自然を歌うのだが、この都会の中の自然というパラドックスは、荷風が彼自身の存在をパラドックスと化す作業と相俟って、奇妙に悲しげに読者の心に迫って来る。「大窪たより」から「断腸亭日乗」まで、荷風の随筆日記の類は日本の四季の美しさを描いた最上の部分を含み、いつ読んでも新しい。  それはまた小説についても言えるようである。荷風は一木一草を見るように人間界を眺めていた。人生は「つゆのあとさき」にすぎず、女は「ひかげの花」にすぎない。植物学者の眼と詩人の心とを以て、荷風は人間の本質としての風俗を、四季とともに草花が咲きやがて散るように、正確に、悲しげに、眺めていたのではないだろうか。 [#地付き](昭和四十五年十一月)     或る友情の形見  アンドレ・ジイドが書翰文学の大家であることは、既にヴァレリイ、クローデル、ジャム、シュアレスなどとの往復書翰集で証明済みだが、ロジェ・マルタン・デュ・ガールとの間に交された往復書翰集は、交友の時期も長く、手紙の量も多く、またその豊富な内容に於ても、白眉と言っても過言ではあるまい。「贋金つかい」の小説家をドストエフスキイの徒とみなし、「チボー家の人々」の小説家をトルストイの徒とみなすならば、この二人がまったく相反する小説観に立ち、相互に手厳しい批評家だったことは当然である。従ってこの書翰集には、二人の内的生活の変遷、作品の構想発展、読書の感想、実生活の印象などが相継いで現れ、読者に息を抜く暇を与えない。ジイドが死んだ後になって、ロジェ・マルタン・デュ・ガールは二人の友情の形見であるこの書翰集に、いとしむように自ら註を加え、自分の未刊の日記や他人の手紙などを、鏤めるように引用している。その点にもこの本の特色の一つがあると言えようか。 [#地付き](昭和四十六年二月)     我が立原  青春をみずみずしく新鮮に生きることは、必ずしもた易くはない。従って魂の充足を求める人にとって、立原道造は青春の象徴のように思われ、「我が立原」と呼ぶような親しみを覚えるのではないだろうか。立原道造は青春そのものを造型してその央《さなか》に死んだ。遺された詩、小説、エッセイ、書翰のいずれもが、或る種のはかなげな、未成熟の美しさを、捉えがたい花の馨りのようにくゆらせている。青春とは本質的に手が届きそうでいて届かぬものであり、それを捉える手立ては時間的推移による追憶の他にはあるまい。立原は追憶する年齢まで生き延びることが出来なかったが、その代り時間を空間に置き換えて、「今日」を追憶そのものとして歌うことを知っていた。そこに彼の青春の微妙なからくりがあった。その結果、彼ほど見事に完結した青春を印象づける者も少いだろう。私は生前一面識もなかったが、立原は常に「我が立原」である。 [#地付き](昭和四十六年二月)     内田百  内田百を何と定義すれば宜しいか、これが難問である。文士には違いないが、とても随筆家などの枠におさまる人物ではない。玄妙の小説家、散文の魔術師、趣味の権化、記憶術の達人、とにかく当代随一の文章家であることは間違いない。芝居気があるとも見えないのに、行住坐臥どこを採っても百鬼園先生で、行屎走尿《こうしそうによう》の間も芸術家である。生活によって文章が生ずるのでなく、文章によって生活が生ずるとは、正にこのことであろう。 [#地付き](昭和四十六年六月)     詩人哲学者  私が大学生だった頃に私の周囲で人気のあった先輩というのを数え上げると、さしずめ次の三人は欠かせなかったように思う。渡辺一夫、吉満義彦、片山敏彦。共通して、ひやかし抜きで知識人とでも呼ぶのだろうが、先輩と言っても、私はただその話を聞いた、その著作を読んだという間柄で、渡辺先生以外はそれほど親しくしてもらったわけではない。この三人を更に分類すれば、渡辺一夫はユマニスト、吉満義彦は神学者、片山敏彦は詩人哲学者ということになろうか。  今日になって詩人哲学者と呼ぶに足りる人は大勢いようが、片山さんはその先駆者だったように思う。現代では詩書画をよくする文人というものは時代おくれになった。片山さんのように、本業のエッセイの他に、詩を書き、絵をたしなみ、音楽に造詣があり、独仏の両文学を自在に翻訳するといった多方面の人、しかもアカデミイと関係なく野にあって趣味的な生活を送った人というのは珍しい。詩人哲学者すなわち現代的な文人と呼ぶのがふさわしいような気がする。 [#地付き](昭和四十六年八月)     詩の愉しみ  詩の好きな読者にとって、最高の贅沢は初版本の詩集によって詩を読むことである。初版本はおおむね高価であり、著者が心血を注いだことがありありと分るから、中身の詩はどれも優秀であるかのように信じやすい。しかし実際にはどんな体裁の本で読もうとも、本質には何の関係もない。それ故、詩は値段の安い文庫本で読むときに、最もはっきりとそれ自体の芸術的値打を示しているのである。私たちが任意の詩集をポケットに入れて持ち歩き、例えば涼しいプラタナスの木蔭で、例えば雑沓する停車場のベンチで、任意の頁を開いて一篇の詩を読むとすれば、これまた精神の一つの贅沢でなくて何だろうか。そして文庫本を持ち歩くことによって好きな詩をことごとく諳記し、一冊の架空の書物を頭脳の中に貯えることが出来れば、それは詩の好きな読者にとってこの上ない愉しみであり、また著者である詩人たちにとっても最高の光栄であるだろう、と私は思う。 [#地付き](昭和四十八年八月)     鏡花の美  鏡花を読むことは、昔も今も、私にとって無上の愉しみである。まるで全身を美の温湯に涵《ひた》したかのように、一切の余分な感覚は麻痺し、忽ち別世界が現前する。それは散文によって構築された堅牢な世界であり、しかも詩的としか言いようのない前代未聞の美が揺曳している世界である。その美は、故郷金沢で生れながらにして鏡花に与えられていた、哀れな、幽かな、艶《えん》な、みやびやかなものと、東京に出てからの、洗練された、粋な、意地っ張りな、しかも儚いものとの入り混った、まことに鏡花独特の美で、それが女のかたちを取って生気躍動すると、「鏡花の女」と呼ばれるヒロインたちを喚起する。彼女等は決して実在することなく、ただ文字の上の幻にすぎないのに、読者は眼に見、耳に聴き、その吐息を感じ、恋着する。それこそ鏡花が、彼の美の発明にもまさって、彼の美の定着という点に日本語の機能を最大限に発揮したことの結果であるだろうし、翻って読者には、これぞ鏡花を読むことの醍醐味ということにもなるのである。 [#地付き](昭和四十八年九月)  [#改ページ]   ㈽    花田清輝「復興期の精神」(真善美社刊)  例えばここに大きな河が流れている。河のほとりに来て旅人は色々のことを考えるだろう。これを現象としてみようとも、象徴として感じようとも、とにかく橋がかかっていなければ、これを渡ることが出来ない。旅人は大急ぎで艀を探すだろうし、もし艀がなければ河に沿って歩いて行くだろう。無理に泳いで渡ろうとして溺れた者もあるかもしれない。シッダルウタのように河のほとりに小舎を建てて住むこともできる。実に人さまざまである。或る者は水の声にパンタ・レイを聞いても、或る者はそこでみそぎをしたかもしれない。  とにかく戦争から今日迄、僕たちは一つの転形期を生きた。その生き方はさまざまであるが正しい生き方を精神の中で模索した者でなければ、今日、人を説得する力はないだろう。暴風と試錬との時代だから、生き方が必ずしも正しかったかどうかは後世の批判に俟つところが多い。しかしたかの知れた化の皮は直に剥げるものだし、もし幾世紀をごまかし続け得たらそれはやはり一つの生き方だろう。ルネサンス期、この素晴らしい(と敢て僕たちのそれと対照的に比較し得る)転形期に於ても、色々な生き方が試みられ、中には化の皮が本物とみなされたような連中もいた。ただし彼等は、というよりすべて転形期に生きて説得力を持った連中は、各個人に独特の生き方を心得ていたのだ。自分の眼鏡でしか森羅万象を見なかった。この眼鏡は借りものではない。 「復興期の精神」の著者は独特の眼鏡をかけている。あらゆる対象が、この眼鏡の前では見事に屈折してレンズの中にはいってしまう。スピノザの倫理学も、アインシュタインの相対性原理も、アンデルセンの童話も、すべて同次元に取り扱われる。「ドン・キホーテ」全巻が、巻頭の十行ですべて解釈づけられてしまうほど、このレンズの収斂性は大きい。  この書物に収められた二十篇ばかりのエッセイは、すべて転形期に生きた人間が、他の転形期に生きた人間を如何に見るかという主題の下に統一される。暗黒の中にあればあるほど少しでも光明が要求されるから、ルネサンス期という闇と光明との交錯時代から、多くの登場人物が呼び出された。しかしこのルネサンス期は、必ずしもヒューマニズムの美しい花束でばかり飾られてはいない。著者の解釈は快刀乱麻で、一切の先入観から独立している。西欧の学者達が僕等に示してくれる古典の数多い註釈は勿論大事なものだが、それを鵜呑みにしても古典人の生き方はなかなか分るものではない。あらゆる註釈はすべてふりわけられる。従って自分の眼鏡だけが尊いのだ、もし独断に陥らなければ。  著者の精神世界で遂げられた古典の変貌は、きらびやかな博識を貫く一種の論理によって解決される。この論理の前で、博識は手品の手さばきにすぎない。しかし如何にその種あかしが簡単でも、手さばきの巧みさは見落せない。オルダス・ハクスレが、「ブリタニカ」を座右に置いて愛読したからと言って、誰がハクスレの百科全書的知識の悪口を言えるだろうか。花田清輝氏は彼の論理のために、テーブルの上に手品の材料をあまりに並べすぎた。しかしハンカチや鳩や帽子がなければ出来ないような手品とこれは手品が違うのである。転向という言葉が与えられた時、まずコペルニクス的転向を考えるような精神、これは確かに実証的で科学的で、そして一番大事なものだ。著者はいつも自分勝手に読者を引張って行くが、汽船のスピイドが頗る速いから、澪の透明な水の泡は、しばしば人の眼には見えないだろう。  この本は戦争中に書かれ、一九四六年に出た。最も見事な収穫である。僕はヴァレリイを聯想するが、ヴァレリイの面白さの分る人には、この書物は決して無縁ではないだろう。これは過褒ではないつもりだ。 [#地付き](昭和二十二年六月)     ボーヴォワール「招かれた女」(創元社刊)  J・P・サルトルと並んで、フランス実存主義文学を代表するシモーヌ・ド・ボーヴォワール女史の作品が、今日まで我が国に紹介されなかったことは、些か不思議に感じられる。女史は「現代」誌に拠って、サルトルの最も忠実な協力者ではあるが、しばしば鋭い論鋒によってサルトル理論を修正していることでも分るように、甘んじてサルトルの下風に立つ者ではない。ソルボンヌ大学哲学科の同窓であり、恐らくはお互に、早くから文学・哲学の好敵手として任じていただろうから、サルトルの「嘔吐」(一九三八)におくれて書かれた彼女の処女作「招かれた女」(一九四三)には、それだけの抱負があったに違いない。 「招かれた女」は目下上巻(第一部)だけしか出版されていないが、主題の充分な展開は第二部を待たなければならない。第二次大戦前夜のパリ、女流作家のフランソワーズと、彼女が「二人の生活はひとつだ」と信じている演劇人ピエールとの間に、「招かれた女」グザヴィエールがはいって来る。第一部はアダジオで、この三人がトリオを形づくろうと試みる経過、第二部はアレグロから次第にプレストに移って、「如何にして無垢の愛が汚ならしい裏切りになったか」(十章)の経過が描かれる。グザヴィエールの魅力は、彼女が利己的で、気儘で、孤独で、およそ性格らしいものを持たず、周囲のあらゆるものに嫉妬を覚えるような娘でありながら、しかも苦しむことにも疑うことにも自由な点にある。彼女がフランソワーズとピエールと共に、セビリア風の踊りを見ながら、煙草の火で自分の手を焼く挿話(第二部四章)は、この娘の特異性を極めてよく示している。  フランソワーズは彼女を心から愛していると思うが、グザヴィエールはこのような「献身」を軽蔑している。(「献身」の主題は、一九四四年の彼女の評論「ピリュスとシネアス」に更に取り上げられる。)実際にそこにあるものは嫉妬と怨嗟との「暗い地獄」にすぎない。しかし、最後にフランソワーズが自分の招いた女を殺すのは、彼女が自分の魂の正体を知った時に、魂の死よりも自由な意志を選んだからであり、そこに道徳か自由か、良心か実存か、相手か自分かの選択が、彼女ひとりの責任に於て行われたからである。この解決は、読者が充分にフランソワーズの足どりを辿って歩いて行かない限り、唐突に見えるかもしれない。がその伏線は縦横に張りめぐらされている。  全体を通じて、この小説は殆どフランソワーズの視点から描かれ、心理の分析はなく、早い対話と鋭い意識描写だけで運ばれている。しかしグザヴィエールから「あなたはわたしに嫉妬しているのだ」(十章)と言われる迄は、彼女の行為(八章)の中に嫉妬の意識は沈んだまま浮んで来ない。このような方法は、フォークナーを祖とする現代意識小説の常套だが、不馴な読者をたたずませることもあり得る。  ボーヴォワール女史は、三十女の愛と憎しみとの問題から出発し、同じ選択の主題を長篇「他人の血」(一九四四)と歴史劇「無駄な口」(一九四五)とで一層ひろげてみせた。長篇「人はすべて死す」(一九四七)に至っては、十三世紀に生れた人間が不死の薬を飲んで現代に生きているという荒唐無稽なシチュエーションをつくって、生と死という人間の条件を解明しようとしているが、哲学的な題材によってロマンの興味がそこなわれるようなことはない。この事は「招かれた女」でも同様である。  女性の立場の問題は、女史の主著「第二の性」二巻(一九四九)に発展する。これについては紙数が尽きた。 [#地付き](昭和二十七年四月)     「アポリネール詩集」(創元社刊)  一つの生涯が波瀾万丈の変化に富んでいて、そのような生活からその時々に作品が生れ出た以上、面白くない筈は決してないような作家がいるものだ。ギイーヨーム・アポリネールは、そうした波瀾万丈型の一人で、二十世紀の初め、前大戦直前の新文学勃興時代に、何から何まで新風を吹き込んだ一流の人物であった。キャフェ・ド・フロールに於けるキュビスムの大御所としての位置は、リュー・ド・マダムのガリマール書店におけるジイドにも比肩できるだろう。  長篇、短篇、戯曲、美術評論、猥褻文書の書誌学的研究に至るまで、それぞれすぐれた作品を残しているが、アポリネールの文学史的地位が、「新精神」の提唱者として、またキュビスム、シュルレアリスムの先駆的な意義をもつ詩人としての業績に懸っているのは当然であろう。何といっても「アルコール」の不思議な郷愁をたたえた作品、不協和音的音楽性の美しさ、そして「カリグラム」のさわやかな冒険は、共に今世紀初めの意義深い詩集として価値づけられている。  セゲルス版の「アポリネール詩集」をそっくり日本語に移植したこの本は、粒よりな詩作品のみを選んであるし、アンドレ・ビーによる面白い伝記も加わっていて、アポリネールを紹介するには絶好の本だが、ただ彼の詩はごくポピュラーなものを除いて多くは難解であるから、堀口大学氏の流暢な翻訳を以てしても、靴を隔てて痒きを掻く恐れなしとしないだろう。 [#地付き](昭和二十八年五月)     ジュリアン・グリーン「真夜中」(岩波書店刊)  ここに「真夜中」を加えて、ジュリアン・グリーンの九冊の長篇のうち、第四冊目を日本語で読み得ることになった。僕は原著者を偏愛する者だが、このフランスの特異の作家が、我が国でも、次第に多くの読者を持ち得るようになりつつあることが、何よりも悦ばしい。ジュリアン・グリーンは死と恐怖、孤独と絶望の主題を、処女作以来ずっと書き続けて来た非通俗的な作家で、作品の中に多少なりとも教訓的な意義を持ち込むようなことはしない。カトリック作家の一人ということになっているが、彼の作品は、無神論者が自己の無神論を確立するための説教書、謂わばイワン・カラマーゾフの「大審問官」の如き感じを持っている。読者は彼の作品の中で、彼の主人公達と共に、苦悶したり絶望したり死んだりすればよい。それが読者に何ものかを与えるか、或いは何ものをも与えないかは、読者自身の魂の問題である。 「真夜中」は一九三六年に書かれて、グリーンの長篇中、読みやすいものの一つである。とは言っても、すぐれた長篇小説にはとかく退屈なところがあるので、この作品にも少々うんざりするほど緻密で執拗な描写がないわけではない。ただ異常な緊迫感が全体を貫いていて、一度その虜になった読者は、厭でも最後まで読み通さずにはいられないだろう。それからこのジュリアン・グリーンという名前が、他の小説家とは全く違った印象で、頭の中に刻み込まれることになる。  技術批評を伴わない書評なんか(特に翻訳書では)意味がないと僕は思うが、意訳と直訳とのどちらに傾いて訳すべきかを予め決定しておくことが、少々等閑にされたのではないかと思う。グリーンのような文章の場合、直訳に近い文章で統一した方が、心理のニュアンスをくっきりと浮き上らせ得るのではないか。しかしこんなことは翻訳者の好き勝手で、この大作を丹念に邦語に移された河合亨氏に、僕は勿論敬服するにやぶさかではない。 [#地付き](昭和二十八年九月)     「リルケ書簡集」(みすず書房刊)  日本語によるリルケ関係書が次々と刊行されて行くのは、等しく僕等の悦びだが、嘗ての養徳社版リルケ書簡集に次いで、みすず書房からも別個の方針による書簡集五巻が発行されることになり、その最初の二巻が出た。リルケ=ジイド往復書簡集と、ロダン宛書簡集とである。何れも、フランス文化へのリルケの共感に基いている。  リルケは、ドイツ語を使って書いたドイツの詩人だが、詩的な霊感の多くを、世界市民的な、国境の無い、彼の魂の感受性に負うている。彼はロシアを、イタリアを、北欧を、そして特にフランスを愛した。彼はパリに在って「マルテの手記」を書いたばかりでなく、後年自らフランス語による詩作をも試みた。その彼が、フランスのすぐれた知識人たちとつつましい交渉を持ったのは当然である。  リルケとジイドとの出会は、相互の作品への尊敬という点から始められた。リルケは、ジイドの「放蕩息子の帰宅」を翻訳したし、ジイドの方は「マルテ」の断片を翻訳している。それらはいずれもこの二人の作家が、自分達の翻訳を「意識的な尊敬の行為」と考えた証左であり、従ってこの二人の接近は、人格的な友情の牽引力による以上に、作品の魅力によって左右されていたかと思われる。  後に、リルケは「旗手クリストフ・リルケ」の仏訳をジイドに頼み、またジイドは、リルケの手によって「地の糧」がドイツ語に翻訳されることを望んだが、これらは何れも着手されなかった。二人がおのおの自分の仕事で忙しかったということもあるだろうが、二人が次第に異質的な世界の中に住むようになったことも原因であろう。  ジイドの世界は外側に開き、その晩年まで燃えるような好奇心の眼を光らせ、常に現在の心境を振り捨てて進んだのに対し、リルケの世界は内に鎖し、その中で頑固に自分の小宇宙を守りながら一切を幻視に於て見た。それは一種の平行線の如きものである。この二人の往復書簡は、お互に尊敬のこもった筆致でつづられているが、それだけに幾分よそよそしい。(例えば、この書物の中に挿入された、リルケのパリ財産の差押に関するロラン=ツヴァイクの往復書簡のような、熱っぽい調子はない。)しかしこの書簡集は、ルネ・ラングの綿密な註釈と、二人の他にもいろいろ参考になる書簡を加えて、興味深く編集されているから、この二人の作家に平等に関心のある読者にはこの上もなく面白い読みものであるに違いない。  これに対してロダン宛書簡集の方は、一方的にリルケのロダンに宛てた約十年間の書簡を、年代順に並べてある。これは、特に最初の、第一、第三、第五書簡に見るように、情熱的な崇拝をもって近づいて行った魂の記録である。この調子は、第三十書簡によって、ロダンから「盗みを働いた召使のように」追い出された後にも、なお尊敬と自負との弱音を響かせながら、最後まで続く。リルケは常に全人格的な集注を見知らぬ人に宛てた書簡にも注いだ人で、そのためにどんな片々たるものでもリルケ的なのだが、彼が真にロダンを模範として生活し詩作したその謙虚な態度は、この書簡集の隅々にまで感じられる。  ただこの書物の方は、前のと較べて一方的な編集で、実際のリルケの気持も、また相手のロダンの気持も、行間に読み取る他はないから、例えばクララ・リルケあて書簡などを座右に置いて参照して行かなければ、ごく表面だけを見ることになるかもしれない。  リルケの翻訳に当る態度と同じく、いずれも深い尊敬と共感とから出発した好ましい翻訳だが、「孤独と友情の書」とか「師に寄せる手紙」とかいう出版社の題名のつけかたは、ちょっとどうだろうか。 [#地付き](昭和二十八年十二月)     河上徹太郎「私の詩と真実」(新潮社刊)  これは河上徹太郎氏が文芸評論の形で書かれたその青春の回想である。青春というものは定義しにくいが、河上氏はそれを「混濁と錯乱と衒気に満ちてゐて、それを豊饒と間違へてゐる所のもの」とされた。そして青春の混沌を整理するには「これに排水渠を作る」、即ち「感受性の形式を確定すること」にあるとされた。  しかし氏は青春に於ける氏の感受性の形成について精緻な分析を試みられているが、そこには現在の円熟した眼からする過去の再整理がないわけではない。つまり過去よりも現在に於て、排水渠を作ることに一層の努力が払われている。そのことが全体を些か図式的にし、青春の混沌とした魅力を少しく失わせているのではないだろうか。「豊饒と間違へてゐる所のもの」と氏は言われるが、その間違える所に、本来の青春の魅力があるように僕などには思われる。  しかしこれは見事な青春である。河上氏の感受性は、富永太郎、小林秀雄、中原中也の詩人たちによって育まれ、ヴェルレーヌ、ジイド、シェストフ、ヴァレリイによって教えられ、またシューマン、シューベルト、フランクに関心を持たれた。そこには文学と音楽との両芸術に対する深い理解と共感とがある。氏が既存の文壇文学になじめずに独自の道を歩まれたのは当然である。しかし氏の本質はマラルメよりはヴェルレーヌに、ヴァレリイよりはジイドに、キェルケゴールよりはシェストフに、またシューマンよりはシューベルトに、より親近性を持たれたのではないか。フランクへの共感も、これはリヴィエールの卓抜な解釈の方に、余計に魅せられたのではないか。  とすると僕は、氏の言っていられる「広くいつて浪漫主義に反逆した」とある態度に、多少の不審を覚える。感傷主義を排するのは当然としても、感傷主義と浪漫主義とは違う。僕は、氏が性来浪漫的な資質の人であって、小林秀雄氏との出会は、氏をその本来の道から引き離したのではないかと懼れている。氏にとって身近な作家として挙げられているのが、佐藤春夫、萩原朔太郎の二人であるのを見れば、一層その感が深い。  僕はこの本をゆっくり愉しんで読んだが、ただあまりにきちんと整頓され、そこにあるべき傷痕の隠されているのが寂しかった。青春というのは傷つきやすいものだし、氏の生来の浪漫的傾向から言って、そこにはもっと苛烈なものが潜んでいたに違いない。これはこれで見事な青春であり、またこのようなエッセイは我が国では珍しいが、もし批評が「批評家の文学者的全存在を賭して相手の作品にぶつかる」ことにあるのならば、自分の青春に対しても上品であるだけでは済まされないように思う。 [#地付き](昭和二十九年二月)     モーリヤック「ガリガイ」(新潮社刊)  ガリガイとは、十六世紀イタリアに悪名をとどろかせたメディチ家の一人マリアに寵を受けた、レオノーラ・ガリガイのことである。この女は魔女として焚殺されたが、生前、マリアに対して異常な影響力を持っていた。謂わばその魂を支配していたと言われている。  フランソワ・モーリヤックの最も新しい小説「ガリガイ」は、しかし、この歴史上の人物を扱った作品ではない。いなそれは現代のフランス、それも例によってボルドー周辺の小都会ドルトを舞台にして、ガリガイと渾名される、名門出の、今は落ちぶれて家庭教師をしている一女性を主人公としたものである。この女性は、彼女が働いている成上り者のデュヴェルネ家の、父親にも、母親にも、またその一人娘にも、奇妙な影響力を持っているが、一方自分より年下の青年ニコラに対しても、潜在的な情熱を燃しつづけている。このニコラは、また幼な友達のジルからも影響力を受けて、自分というものを確立できないままに、ひそかに悩み苦しんでいる。  こういうふうに筋書を書いて行けば、ニコラは「癩者への接吻」「炎の河」「海への道」等に常に現れて来る、一貫した性格を持たぬ無気力な青年であり、ガリガイは「テレーズ」や「パリサイ女」などに共通の、謂わば悪徳をも同時に身につけた、強い女、自分で自分の情熱を持てあましている女であることが分るだろう。つまりこのわずか百四十頁の中篇小説は、モーリヤック文学の縮刷見本の如きものである。  この小説には他にもさまざまの人物が登場し、二組の恋愛が進行し、事件もあれば風景描写もある。それらを操る作者の筆先は、悠々としてまさに老手である。しかし一つには、作者があまりに簡潔に物語を仕上げたため、肝心のガリガイの影響力の主題が、いつしかニコラに於ける「欲望と嫌悪」の主題にすりかえられてしまったこと、また、作者自身がわざわざ「あとがき」を添えたほど、カトリック小説家としてのモーリヤックの責任が、この中篇に聖寵の問題を介入せしめざるを得なかったこと、この二点がどうも物足りない。  決して宗教的な、お説教味のある小説ではないが、魂の苦悩を描いたり、情熱の不思議さを描いたりするためには、脂《あぶら》の乗り切った時代のモーリヤック小説のうま味に較べて、少々枯れすぎているように思われる。 [#地付き](昭和二十九年三月)     三島由紀夫「潮騒」(新潮社刊)  十九世紀の前半を飾るフランス・ロマン派の文学は、その基調に於て、古典派文学への反抗であると共に、新時代の胎動を示す生命力の表現であるとも言えた。ロマン派は当然古典派の主要武器である劇及び抒情詩の分野で新風を注ぎ込んだが、その主力は、次第に、小説の分野に於て開花した。それはこの新しいジャンルが、新時代の生命力を表現するのに最も適切な武器だったからに他ならない。わが国の近代文学は、古典派、ロマン派、そして現代というふうに、見やすい進化を示していない。個々の作家があるだけで、古典派もロマン派も正確な地位を持っていないし、自然主義が、これはロマン派文学への反動としてではなく、フランスからの輸入品として(しかも甚だ不正確に)どっしりと王座を占めてしまった。謂わば、現代の日本文学は、急に途中から始まったという感じがする。  僕が「潮騒」の読後にまず感じたのは、このような作品が、文学史的に見て、当然もっと早い時期に書かれていて然るべきものだったことである。これはその意味でユニイクな——謂わば、文学の長い歴史を一点に凝縮して見せたような作品である。古典派というのは、ギリシャ・ローマの作品に対する共感と尊敬とに発想を持っているが、「潮騒」のモチイフには明かにギリシャ的な自然と人間との讃歌がある。  作品の主題はロマン派的な憂愁悲愴なものから遠いが、しかし現代のメルヘンとして、このような主題の選びかたはロマン的である。しかも出来上った作品は、この作者らしい現代人の眼によって見られ、描かれている。  このきちんとまとまった作品にもし多少の保留を行うとすれば、この第三の点、即ち現代人の眼から見られている点であろう。作者は二人の恋人を(特に新治の方を)心からの共感をもって描き出しているが、彼等は行動のみがあれば足りるので(例えば鮑とり競争の場面)、説明的な心理の追跡など本来まったく不要な筈である。女主人公の愛を争う二人の若者は古典的な型として書き分けられているのに、新治に心を寄せている女子大学生の取り扱いかたは、すこぶる現代的である。(彼女の自意識——それも容貌の醜さなどという甚だ洒落た——を書くことは、女主人公の美しさを浮び上らせる以上に、可憐さの点で女主人公との類似感を与えてしまう。)  作者の意図は、古典的な物語をつくることに懸っていた筈だが、現代人である作者は、どうしても多少の心理的な飾りなしには書けなかったのではないか。僕が気になったのはこれら飾りの部分だが、しかしそれはこの作品の芳醇な味わいを、損《そこな》うほどのものでは勿論ない。 [#地付き](昭和二十九年六月)     ジュリアン・グリーン「四角関係」(ダヴィッド社刊)  ジュリアン・グリーンの作品がまた一つ邦語に移されたことを悦びたい。比較的初期の一九二八年に「閉された庭」に続いて書かれた作品で、翌二九年に出版された。「閉された庭」が一人の若い女の意識を追い詰めて単純かつ執拗に彼女の内部世界を再現したのに対し、この作品でグリーンは、幾人かの人物をバルザック的手法によって外面から描き分けた上で、各人の内部に、彼等を苦しめてやまない怪獣レヴィアタンの存在を追求している。原題「レヴィアタン」Leviathan の意味するものは、人間の無意識界を占める悪意の意志で、人はそれを理解しないままに怪獣の餌食となって苦しまねばならない。そこからこの小説の犯罪小説的結構と、パセチックな宿命的雰囲気との混合が生れて来る。  これはグリーンの無神論的作品の一つであって、やはり救いのない絶望的なものである。しかし登場人物の持つ純粋性——特にグロジョルジュ夫人のような怪物にさえもこの純粋性を認め得ることは、作者の無意識界の追求が、恩寵のない世界に対しても常に一種の神秘的な光線を当てていることを証明するだろう。僕等がジュリアン・グリーンの作品に感動するのは、常にこうした照明の効果である。更にこの作品は多角的な構成を持っているから、光線の当てかたについての作者の技術が明かに看て取られる。  佐分純一氏による訳文もまた、グリーン的体質の滲み出た文章で、訳者の苦心は充分にむくいられた。ただ、何と言ってもこの「四角関係」という題名が気にくわない。原題が邦語として耳馴れないならば、せめて英訳名としてよく知られている「暗い旅路」Dark Journey をこれに当てたかった。ダヴィッド社のような若い出版社は、原題に近い訳語を示すだけの勇気を持ってもらいたいものだ。 [#地付き](昭和二十九年十月)     中村真一郎「冷たい天使」(講談社刊)  これは複雑な内容を持った小型のロマンである。謂わば現代的ロマンの見本のようなものだ。前作の「夜半楽」に較べて、作者は一層このロマンという形式に自信を持って身を乗り出して来た。「夜半楽」には少々破れかぶれのところがあって、そこの辺に奇妙に美しい光沢が見られたが、「冷たい天使」の方は、全体が洒落た構成で貫かれ、どの部分も過不足なく仕上げられている。  ところで、この作品には作者のちょっと人の悪いところが出ているから、読者は騙されてはならない。例えば、この小説には如何にも実在していそうな、戦後派の小説家(それが主人公である)や、その友達の批評家(語り手である)や、雑誌記者や、著名な作家や、「戦後夫人」や、バアのマダムなどが、次々に登場して来るが、それらはこの小説の外的現実を描き出すために、特に作者によって選び取られた人物なので、読者が眩惑されてうっかりモデル小説かなどと思うならひどい目に会う。つまり作者は、ここに作者の熟知した環境、というか一つの小世界というか、それを設定して現実だと読者に思い込ませた上で、作者自身の現実、謂わば内的現実を呈出してみせようとする。  この小説は、批評家が、彼の友人である小説家が自殺したあとで、その死の原因を追求するという形を採っているが、その追求のしかたに、つまり如何にも小説らしい小説として完成しているにも拘らず、それが批評家の書いた批評であるという点に、作品の独自性が懸っている。小説的な部分よりも批評的な部分に、作品が重い。例えば、劇中劇の如くに現れる「冷たい天使」及び「続冷たい天使」なる小説は、私小説への一種のパロディなのだろうが、もし僕が文芸時評でこの二つの短篇を扱うなら、僕はちっとも褒めないだろう。(この挿入された小説が下手に出来ていても、いなそれだからこそ、この部分がロマンに必要だという点、そこが作者の頭のいい、しかしちょっと人の悪いところである。挿入された手紙などでも同じだ。)——しかるに、それらに前後する批評家の手になる章は、生気が漲っている。  従ってこのロマンは、風俗小説でも恋愛小説でも心理小説でもなくて、僕に言わせれば認識小説とでも名づけたいものだ。読者は愛というものを、この中で次第に認識して行くだろう(この批評家が認識して行ったのと同じ順序で)。もし同様に重要なテーマである死の方に、愛と同じだけの認識が加えられていたなら、このロマンはもっと重いものになっていただろう。作者は俗な環境を描くのに少々シニックになりすぎた傾きがあって、友人の自殺という主題にパセチックな感動を惜しんでいる。が全体を乾燥した、現実への批評という形で書いている以上、これは作者の計算の中にあったのかもしれない。  この作品の中で、作者が登場人物に与えた批評は殊に見事である。小説は、内部に批評家が居なければ書けないものだ。しかし語り手を批評家にして、その批評家の批評の部分が面白いというのでは、小説家である作者に対してあまり褒めたことにならないかもしれない。これはやはり小型のロマンで、もっとふくらんだ(より長いという意味ではない)ものを書いてほしいというのが、僕の心からの忠告だ。 [#地付き](昭和三十年二月)     石川淳「虹」(講談社刊) 「虹」は石川さんの久しぶりの長篇である。ロマンというほどの大きなものではないが、従来の短篇ではややもすると部分的な美しさに終った石川さんの架空世界が、これだけの枚数を与えられると、壮麗に読者の前に展開して来る。  石川さんの小説では、登場人物は性格でも、魂でも、身分でも、タイプでもなくて、それぞれが「エネルギイ」である。だから一人の人物では小説は出来上らない。必ず二人以上の人物、或いは二個以上のエネルギイが衝突しなければならない。従ってこの小説のように多くの重要な人物が絡み合うと、小世界の上に連鎖反応的大爆発が起り、そこにさまざまの観念が乱れ散る。  エネルギイの衝突は即ち「事件」であり、この小説も亦、朽木久太の夜会という大事件を成立させるための、無数の小事件の上に立脚している。意志的な事件というものはつまり冒険だから、この小説は冒険小説だと言うことも出来るだろう。  ところで石川さんはお洒落な人だから、この小説も色んな絵模様、俗に言えば小道具で飾られている。そいつをいちいち解釈しても石川さんに嗤われるのが落だが、例えば、絨毯は「願望」、アメティストの指輪は「錯覚」、花火は「大衆の意志」、女主人公の組子は「美」といった類である。こういうアレゴリイは、本来フランス中世小説の匂を持つ筈だが、石川さんの筆にかかると現実以上に現実に見えて来るから不思議である。  特に、作者が非人間的な眼でエネルギイの衝突を描いている間に、ちらちらと組子という女の姿が見え隠れするところや、一円札の札束を囲んでバス従業員たちが議論を交すところなどは、如何にも観念の極まりに現実があるとしか思われない。これは作者も、作中人物の口から言わせている位だから、その自信の程は推して知られる。 「……きみの手妻のたねはたかが観念ではないか。」「さう。観念の中にはかならず人間が生きてゐますよ。」  この小説は、むつかしく考えると深遠な観念小説だし、読物と思えば面白い冒険小説である。シュルレアリスムというものはフランス以外では育ちにくいと考えられているが、こういうお手本を日本語で見せつけられると、いかに新しい傾向の嫌いな人でも唸らざるを得ないだろう。石川さんは実にユニイクな作家である。 [#地付き](昭和三十年二月)     曾野綾子「遠来の客たち」(筑摩書房刊)  曾野綾子さんの初めての創作集を読み終って、すがすがしい微風の吹きすぎるのを感じた。誰でもが好感を持てるような、のびのびとした、明るい作風である。おませな文学少女といったふうの批評を前に読んだ覚えがあるが、僕の印象ではそんなこせついたものは見当らない。作品はどれも素直な、素人じみたものだ。ただ素人らしからぬはっきりした個性だけは持っている。それはつまり文体といったようなものだろう。女らしい情感の通った、それでいて知的な処理を経た、リズミカルな文章である。  この女らしさということは、集中六篇のうち、「雲海」をのぞく五篇がすべて女性を主人公とし、その人物の見かた、考えかたに、ちょっと僕等男性の気のつかない、細かいニュアンスをただよわせている点にも現れている。男まさりの女流作家が多いなかに、曾野さんのふっくらした、神経の行き届いた文章は新鮮である。モチイフの取り上げかたも、むやみと飛躍することがなく、身に即して書かれているようだ。この集の中では、僕には「海の御墓」が一番よいように思われた。ここでは語り手の心理だけでなく、対象の老イギリス人の中にも、作者がはいりこんでいる。「遠来の客たち」では、風景はまだ語り手の眼に映っただけのものである。  曾野さんのような作風の人が、このあとどんな作品を書くものか興味が深い。もっと冒険があってもいいが、現在のアンチームな題材を一歩離れると、とんだ失敗をするかもしれない。小ぢんまり纏まるか、失敗作によって前進するか、今がその境目であるような気がする。 [#地付き](昭和三十年四月)     室生犀星「随筆女ひと」(新潮社刊)  室生さんの随筆について語ることは、室生さんの人柄について語るのと同じである。小説の場合でもそれは同じだが、小説の方は先生の架空世界の現れだからよっぽど眼を据えてかからないと、読者がはぐらかされる恐れがある。随筆ともなれば素直にこっちもついて行ける。その小説について、「小説といふものの悲しさはいつも書かうとすることが、うまくその深部に達しきれないでぼやぼやしたものになる、そのぼやぼやしたものが既に小説の正体」であると先生は述べられているが、随筆は謂わば初めからこの「ぼやぼや」だけで書かれているので、集中の「童貞」の一篇の如きは、随筆とも小説とも見分のつかぬ渾然たる傑作で、まことに「さかなのあぶら」だけで出来上っている。  室生さんはあくの強い人で、老来枯淡に構えるという厭味なところはない。その暮しぶりは質素で地味なものだが、眼の玉はしごく貪欲で、別嬪、美少女、石仏、青大将の区別なく注がれている。「女ひと」に対する見方も隠居の叱言みたいなものではなく、若々しくて、それでいて凄味が利いている。死に対する考えかたも、詩のうまい女との応対も、御自分の容貌への意見も、みんなぎょろりと光る眼玉からの発散物である。竹久夢二の死後、夢二が作庭を愛していて、残された手洗いや石仏などを買ってくれぬかと遺族から話があった時に、夢二が庭を作っていたことに感動しながらも、「夢二の石のおもちゃ」を買う気にはならずそのままになった短い一節など、個性を重んじる先生の芯が出ていて読んですがすがしい。遠い昔のことが過去の感情を洗い落して思い返されるというのは、一般に老境の所作だが、先生の場合には生き生きした瞳の色を偲ばせるのである。 [#地付き](昭和三十年十一月)     加藤周一「ある旅行者の思想」(角川書店刊)  この書物の中に、近頃のフランスの青年男女の間で、外国旅行がはやっていることが書かれている。彼等は殆どただみたいな旅費で、スペインやイタリアを回って来る。しかし二十日間やそこいらでイタリアの早回り旅行をやった青年が、イタリアの美術を見たということは出来ない。彼等はイタリアで何かを知るためにではなく、何かを忘れるために旅行したのだということを突然理解した、と著者は述べている。  加藤周一は北ヨーロッパ、特にフランスとイギリスとで丸三ケ年を過ごした。彼は「忘れる」ために旅行したのではない。しかし勉強家の彼は、日本を立つ前に、既に多くのことをヨーロッパに関して知っていた筈である。彼はそういう無駄なことは一切やめて、この中では新しく発見したことのみを語っている。もし彼の発見に珍奇なものがないという人は、僕等の学び得ることは書物の中にも少くないという真理を、忘れているからである。だから彼は、彼の眼で見た確実なものだけを、例えばフィレンツェのダヴィデの像を、ガンの美術館の一枚のボッシュやゴティックの聖堂を、パリの若い娘、医者、またそこにいる日本人などを、語る。彼はついでに国民性や国際情勢なども分析するが、印象が一つの思想にまで高まって行った経路を、この本は生き生きと証明している。既成の知識にわずらわされることのない一知識人の、外部の印象と内面の感情とを交り合せた旅行記ということが出来る。 [#地付き](昭和三十年十二月)     ヴァルジンスキー「死者の国へ」(新潮社刊)  二十世紀の現実は、最早十九世紀的リアリズムだけでは描き切れない様相を持っているだろう。特に第二次大戦後の人間像は、旧式の描写主義ではどうにも焦点を結ばないだろう。そこで一種の幻想的・魔術的リアリズムが誕生し、それが特に敗戦後のドイツに於て、ブロッホや、ユンガーや、カザックや、また若いアイヒンガーなどの作品を生み出すに至った。それは単にドイツ的観念主義の産物とのみ片づけるわけにはいかない世界的なもので、例えば、フランスでも、ブランショや、ベケットのような作家がいる。今や現実を捉えるための手段は、物の外側からだけとは限らなくなっている。カフカの世界的影響は、それが二十世紀の精神的地盤を、いち早く、適切に描き出している点にある。  このヴァルジンスキーの「死者の国へ」は、一九五三年度ヨーロッパ文学賞を得たものだが、それはこの作品が、単に敗戦のために荒廃し切った精神の状態を象徴的に描いていると言うより、死と生との間に引き裂かれた人間の根源的な不安を、極めて生き生きと再現しているからだろう。カザックの「流れの背後の市」や、コクトーの「オルフェ」や、サルトルの「賭はなされた」などと同様に、この作品も死後の世界を扱っている。それは意志も希望も愛もない、敗北と昏迷との、不条理な世界である。今までのこの種の作品よりも、一層幻想的であり、人格の分裂や時間秩序の混乱が甚だしくて、ちょっと読むと、とりとめのない狂人の手記のようにも見える。主人公などは二重にも三重にも分裂しているし、時間は殆ど正しい順序に置き換えることが出来ない。しかしこういう方法によって初めて、作者の意図した、何ものともしれぬ眼に見えぬ大きな手の存在が、圧倒的に僕等の上にのしかかって来る。ただ僕の意見では(これはカザックでもそうだったが)、もう少し透明な空気、或いは透明な文体で統一されていれば、一層効果的だったような気がしてならない。 [#地付き](昭和三十一年一月)     グラック「アルゴオルの城」(人文書院刊)  この見事な音楽的な物語「アルゴオルの城」は、戦前に書かれたものだが、その作者のジュリアン・グラックは、フランスの戦後派の一人として、例えばモーリス・ブランショや、レーモン・ゲランや、サミュエル・ベケットなどと共に、当代最も有望な小説家と言えるだろう。但しここにあげた四人はどれも難解な作風で、わが国にまだ翻訳はない。グラックの処女作が初めて紹介されたのは、フランス現代文学の幅と奥行とを示すものとして、たいへん嬉しいことだ。 「アルゴオルの城」は、一つの現代の神話の物語である。もしもイデーの劇を古典主義と呼び、感覚の劇をロマン主義と呼び、幻想の劇を超現実主義と呼ぶならば、この小説はイデーと感覚と幻想とを巧みに織りまぜた象徴劇だと言える。登場人物はわずかに三人、友情に結ばれた二人の青年と一人の少女とであり、全体に一ケ所の会話もないが、徐々に悲劇的に進行するところの劇的構成を持っている。文体のきめの細かさ、観念のはなやかな肉づけ、登場人物の神話的性格、現実の上に落ちる幻想のかげり、——それらを通じて、作者の魂の激しい息づかいが、文章の上に、霧の間を漏れて来る黄ばんだ太陽のように流れている。  この小説のモチイフをなすものは、作者自身の説くところでは、ワグナーの楽劇「パルシファル」だが、僕は更に、ロートレアモンの「マルドロールの歌」第三歌の第一節に考え及んだ。作者のグラックは、確かにロートレアモンの影響を受けて、神秘的な薄明の世界にあこがれているように感じられる。しかしモチイフは何にせよ、これはグラック独自の世界であり、青柳瑞穂氏の翻訳によるこの作品を音楽的な小説というものの見事な結晶だと呼んでも、決して僕の褒めすぎとばかりは言えないだろう。 [#地付き](昭和三十一年四月)     桂芳久「海鳴りの遠くより」(新潮社刊)  僕は桂芳久君の今までの仕事に興味を持って来たし、この初めての書き下し長篇にも多くの共感を持った。この作者は丹念な足取で、ゆっくりと、確実に、自分の世界を描いた。確かに、多くの俗っぽい小説が氾濫している中にこの一冊を置くと、「海鳴りの遠くより」は純粋な光沢を放っていないわけではない。しかし、もし卒直に言わせてもらえるならば、この小説は僕の予め考えていたような、桂君らしい(というのは、野心と冒険とに溢れた)作品ではない。僕の期待していたものから、少しくはずれている。桂君が僕をだましたのか、それとも僕が勝手に桂君らしいということを想像しすぎたのか。  この小説は、邦子と呼ばれる女性の半生を描いたものだ。天草群島に生れ、長崎に近い大村の女子師範に寄宿するその過去と、東京へ出て結婚し、良人と義母との、一種の精神的三角関係の中で苦しむその現在との、二つの部分に分れている。最初に、邦子が無断で掻爬の手術を受ける場面があり、全体の五分の三を過ぎて、この手術が終る。過去の部分は、時間的に順行して、この間に挟まれている。そしてこの前半、不知火の見える海岸や、一塊の土もない人工島や、長崎の天主堂や、農村での疎開生活などは、その背景をなす戦時下の緊迫感と共に、邦子の精神感情を巧みに写している。乾燥した文体で、一種の抒情を滲ませている。  しかし作者が主として書きたかったのは、そのあとの彼女の現在の生活、謂わば古風な、日本的な、良人と嫁と姑との家族関係への新しい照明だったに違いない。作者は女主人公を一つの固定した環境に投げ入れ、義母との葛藤のうちに「内部のドラマ」を描こうとした。つまりこの二人の女性の内面的な争いの中に、女主人公の意識し得ない生活があって、土に執着した義母が土に復讐されて死んだことは、被害者だった邦子もまた精神の死を死んだことになり、そこで「劇は終った」と、作者が説明するわけだ。その肝心の部分が、僕には、計算が間違っているように思われる。  義母が死に、女主人公が妻としての主権を回復するのに、しかも彼女は発狂する。なぜそういうことになったのか、と読者は訊くに違いない。それは作者が悲劇を好んだからではなく、この女主人公の半生が必然的に帰結した結果でなければならない。とすれば、精神的三角関係の中で苦しめられていた邦子の生活の中に、無意識《ヽヽヽ》の生活力が示されていなければならない。この部分の描写は丹念になされているが、女主人公の内部意識、特に過去の影というものがそこでは明滅しない。過去は既に、手術場の回想という形で呈出されている。従って義母が客観的にうまくその人らしく書かれているからといって、外側を描いただけでは、女主人公の内部葛藤が浮び上るほどではない。読者の興味はこの時、むしろ義母の姿の方に移ってしまう。  この小説はドキュメンテーションが行き届いて、人々をめぐる細部の描写は、特に前半に於て、美しい。それを認めても、僕が桂君に期待したのは、説明的ではない「内部のドラマ」であり、そのためには作者が、もっとこの女主人公の意識の中へと(その周囲にではなく)沈み込んで行かなければならなかっただろう。これでは、なぜ作者がこの女主人公に魅力を感じたのか分らないし、その魅力が素直に読者にまで伝って来ないように思われる。 [#地付き](昭和三十一年五月)     室生犀星「誰が屋根の下」(村山書店刊) 「随筆は文学的に雑草のたぐひであらう」と、室生さんはこの本のあとがきに書いていられる。しかし「雑草の髪を結ふ」ことも「作家の身だしなみの一つ」である以上、室生さんの随筆は決して筆のすさびと言った程度のものではない。もし小説を広々とした庭園に譬えるならば、随筆は、一つの石、一本の樹、一かたまりの苔に対する愛着を述べたものであろう。野草は活けにくいという詩が「続女ひと」にあるが、ここに活けられた野草はとりどりに美しく、室生さんという自然がにじみ出ている。 「誰が屋根の下」は、正続「女ひと」に続く戦後の第三随筆集であり、室生さんが胃腸病院に入院されていた頃の執筆にかかるものである。ちょっと見には頑固そうで内に温かみをたたえた人柄が、或いは身辺の雑事を語り、或いは思い出を語る時に、如何に人なつこいものに感じられるか。孤独な老松のような風格に貫かれていて、枯淡とか諦念とかいった情緒よりも、もっと強い生活力、ひとりの道を行くという気概に溢れている。「着物」とか「桃の木緑なり」とかの、ほんの二、三頁の随筆が、どっしりした小説的重みを持っていること、感嘆のほかはない。  僕はこの随筆集を、落葉松の葉っぱが本の頁の間に降りこぼれる信濃追分の山小舎で、読んだ。しかし都会の雑音の中で開いても、この本は必ずや、老作家の中にある静けさを読者の心に伝えるだろうと思う。 [#地付き](昭和三十一年十一月)     「定本蒲原有明全詩集」(河出書房刊)  蒲原有明は彫琢を以て鳴る詩人である。その全生涯は、数少ない宝石を、より美しく、より丹念に磨くことに費やされた。何よりもまず、一例をあげよう。 「独絃哀歌」の巻頭「あだならまし」の第一節は、初版(明治三十六年刊)によれば、   道なき低き林のながきかげに   君さまよひの歌こそはなほ響かめ——   歌ふは胸の火高く燃ゆるがため、   迷ふは世の途《みち》倦みて行くによるか。  後の二行は、「有明詩集」(大正十一年刊)によれば、   …………   …………   うたふは胸の火、なほも、燻《く》ゆるがため、   迷ふは世の途《みち》を倦《う》みて行くによるか。 「有明詩抄」(昭和三年刊)によれば、   …………   …………   人をも世をも恨みて疑へども   胸の火なほも燻《く》ゆれや歌ひやまず。  今回の定本によれば、全体は、   をぐらき森の常蔭《とかげ》にうそぶき入る   汝《な》がさまよひの歌こそ反響《こだま》しぬれ。   人をも世をも恨み疑へども、   胸の火なほも燻《く》ゆればか歌ひやまず。  初版から定本に至る間に、有明の詩境が高揚したのか低迷したのかは、見る人によって異るだろう。しかし有明は、詩を最初の霊感によってのみ書く詩人ではなかった。詩は彼にとって技法であり、人間であり、宇宙だった。これほどに詩に殉じた人の生涯の美しさは、この一冊の定本詩集に明かにうかがわれる。  河出書房から刊行された限定版のこの詩集は、矢野峰人氏ほか六氏の編集によって、拾遺、未定稿、ヴァリアントの全部を収めてある。有明詩を理解するためには、これらヴァリアントは欠くべからざるものである。この不幸な詩人を記念する定本詩集は、必ずや一本を購うべき義務を、すべての詩を愛する人々に与えるものだろう。詩は安易な業でないことを身を以て示した蒲原有明の名が、次第に忘れられて行くのは痛恨に耐えない。 [#地付き](昭和三十二年三月)     梅崎春生「つむじ風」(角川書店刊)  ユーモア小説、或いはその進化した形としての諷刺小説は、リアリズムだけでは足りない。そこには現実の一種の抽象化が必要になるが、これがまたあまりに観念的にすぎて現実に足を踏まえていなければ、まるで面白くもおかしくもない。そこの兼合いがむつかしい。現実が適当に図式化された上で、部分的に強烈な現実感を伴うのが、傑作となるための最小限度の必要条件だろう。  梅崎君の新聞小説「つむじ風」は、一人の怪しげな青年がまわりに起した、つむじ風的な被害を描いたもので、構成の図式化も巧妙なら、部分の風俗にも詳しく、一本に纏まったところで通読してみても、中途でやめられないほどの面白さがある。  前作の「砂時計」以来、作者のお手の物となった映画的モンタージュや、物語の同時間的進行や、主人公への推理的興味や、そういうアルチザン的な面では梅崎君はすっかり老練になった。  ただ前作と比較すると、これは新聞小説の制約から来たものだろうが、物語が横の方に広がりすぎて、内部に沈んで行くことがないから、従って主題が特に鮮かに印象づけられない。主人公の生きかた、その否定的自己表現なるものが、周囲の俗物たちの間からひとりでに浮び上り、読者の共鳴を得るというところまで行っていない。一つには梅崎君の描く俗物たちが、どれも人がよすぎて、ほほえましいせいもある。これで作者がもう少し意地悪く料理すれば、この小説はうまい諷刺小説になっただろうに、ユーモア小説で終ったのは少々残念だった。  僕はこれを読みながら随分笑ったが、更に読者を怒らせるようなところがあったならもっとよかっただろうと、ふと考えた。 [#地付き](昭和三十二年四月)     「ロートレアモン全集」(ユリイカ刊)  ロートレアモン伯爵と号したイジドル・デュカスについては、多くの謎がある。十九世紀フランス文学の「呪われた詩人」の一人であり、先駆象徴派として、コルビエール、マラルメ、ランボーなどと較べて遜色のない才能を持ったが、生前は全く無名のまま、二十四歳で死んだ。残したものは一巻の散文詩集「マルドロールの歌」と、「ポエジイ」と呼ばれる詩論、及び数通の書簡にすぎない。その代表作「マルドロールの歌」は、狂気を思わせる暗黒憂愁のイメージに充ち、錯綜して悪の叙事詩をなしている。二十世紀に及んで、ようやく注目を浴び、特に超現実派の人たちが師と仰いだことから、その価値を新しく認められるようになった。  僕自身も少年の頃から、この散文詩集に特別の興味を持ち、その全訳を意図しながら今日まで怠け通して来たが、今度、若いフランス文学者で詩人の栗田勇君が、「マルドロールの歌」を初めとして「ポエジイ」、書簡まで収めた「全集」を、三冊本として公刊されることになった。実に悦ばしいことで、その労苦の並々でなかったことは察するにあまりある。ロートレアモンの作品は、速度と非論理性と異常幻想と諷刺とに充ち満ちて、容易に日本語に移し植えられない代物だけに、これを読み易い文章にするには、原作者に劣らぬ才能を必要とする。僕はロートレアモンの愛読者の一人として、我が国でのこの初めての全訳に、心からおめでとうを言う。これによって、多くの人たちがランボーと並ぶもう一人の天才を見出し、この「有毒な書物」の神秘孤高な味わいに戦慄することを望む。「マルドロールの歌」は他に類例のない最も異常な美に、人を導くものだから。 [#地付き](昭和三十二年六月)     神西清「灰色の眼の女」(中央公論社刊)  神西清氏が惜しくもこの春逝去されて、小説集、評論集、詩集などの遺稿が次々に出版される筈だが、真先に小説集「灰色の眼の女」が、故人を偲ぶにふさわしい高雅な装幀で出た。題名の長篇の他に五篇を収めてあり、いずれも単行本に初めて集められた戦後の作品ばかりである。  あらためてこれ等の作品を読み直すと、神西氏がいかに貴重な、掛け替えのない存在であったかが明かだ。身びいきにいうのではないが、この集に収められたどの一篇も、神西氏以外には書き手のない、独自の幻想的な雰囲気を漂わせている。「灰色の眼の女」はJ国商務館の内部、「雪の宿り」は応仁の大乱を語る東大寺塔頭の囲炉裏ばた、「聖痕」は奈良博物館の一室と幻想に浮ぶ青蓮院庭園の雨景、「白樺のある風景」は北京のホテルとコサック村、「ローザムンデ舞曲」は軽井沢、「ハビアン説法」は鎌倉の散歩道に見た破キリシタンの幻想、とこう数えてくれば、題材がきわめて多岐でありながら、いちいちの環境を作者が再現してみせる筆使いの微妙さに、驚くほかはない。それも「内光派」としての態度に貫かれて、精密な外界描写がいつのまにか内部に移植され、作者の精神はどの一行にも燃焼しているから、描写がすべて光芒を放っている。  凝りに凝ったものだが、わざとらしくはないし、苦しみに苦しんで成ったとしても、読者が感じるのは苦渋ではなくて芸術の魅力である。雰囲気に基いた心理の切味の鋭さ、周到な描写と巧妙な省略、ゆっくりした足取と素早い転換、自嘲と抒情を含んだ柔軟な思考、そして正確な日本語。 「灰色の眼の女」のような未完の作でも、細部の面白さが人を飽かせない。ただ読者は、それをゆっくりと、幻想に遊びながら、文章を愉しみながら、コニャックのように味わう必要がある。そうすると、J国商務館の古びた建物と奇妙な異邦人たちとの間から、感受性の強い孤独な青年の姿が、鮮やかに浮んで来る。読者は、この集の中から各自好みの一篇を取り出すことが出来るが(色々の傾向のものがあるから)、しかし僕は、作者が途中で投げ出してしまったこの長篇を、作者の資質が、なお多くの可能性を孕みつつ見事に結晶した作品だと思う。「内的リアリズム」の作品であり、「時間」の小説である。  神西さんは、はやらない小説家だった。はやる小説ばかりある中で、この一冊は朽ちない美しさを持っているだろう。小説を急がず味わって読むことの出来る読者は、この本に決して後悔を覚えないだろう。僕はそれを保証する。 [#地付き](昭和三十二年七月)     石川淳「諸国畸人伝」(筑摩書房刊)  これこそ、石川淳さんが当代切っての風雅の士であることを、最もよく証明するものだろう。「諸国畸人伝」、収めるところ十人、附けたり一人、文字通り諸国にわたって、安房、伊那、府中、駿府、出羽、越後、遠くは阿波、松江、豊後に及んでいる。畸人といっても、渡世は指物師、役者、左官、芸人、医師、俳諧師、人形師、石工等々、いずれも一芸に抽《ぬきん》でた風流人である。その時代は多く幕末であり十八世紀後半から十九世紀の中頃にかかる。石川さんは故人の跡を訪ねて諸国に旅し、既に今日失われつつある郷土の畸人の伝記をつくった。読者にとってありがたい以上に、風狂に身を持ちくずした故人たちにとって、百年の後に知己を得たものと言えるだろう。  収められた十人、当今はやりの文化人らしい者はいない。学のない僕なんかの知っているのは、「北越雪譜」の鈴木牧之、俳諧師井月、やっとそれくらいだから、誰が阿波の人形師を、松江の指物師を、駿府の左官を、わざわざ調べに行くだろう。しかるに一人一人、石川さんの文章に甦らされたところを見れば、一芸に生きて悔のなかった、見事な人たちばかりである。選び出された畸人がそれぞれに面白く、伝と紀行とを綯いまぜにした文章が、これまた面白い。甚だしく趣味的であるが、石川さんらしい薬味はぴりりと利いているし、先に読み進むのが惜しまれるといった底のものだ。  学があって学を隠すほど、おくゆかしいことはない。鴎外、荷風は幕末の学者の伝をつくった。石川さんは畸人の伝をつくる。これは趣味の問題だろう。しかし僕は夷斎学人のこの趣味を難じようとは思わない。蓋し、石川さん自身が畸人である時に、自己を語る以外に人は何を語ることがあろうか。 [#地付き](昭和三十二年十一月)     室生犀星「杏っ子」(新潮社刊)  小説「杏っ子」の中で、娘をはじめ家族の人たちは、小説家平山平四郎のことを「平四郎さん」と呼んでいる。そこで僕も、そのひそみに倣って、小説家室生犀星を、以下に犀星さんと呼ぶことにする。これがちゃんとした批評ならば、呼び棄てにしたところで礼は尽せるというものだ。ところが僕は、初めから降参してしまえば、これを批評する|がら《ヽヽ》ではない。何しろ一徹で、頑固で、執念深くて、とても歯の立つような代物ではない。生じっかな批評よりは、手放しでほめた方が、こっちにしても気が楽というものだ。 「杏っ子」は、犀星さん一代の傑作であろう。僕は何も犀生さんを個人的に識っているから、見えすいたお世辞を言うのではない。世評は既に傑作というに傾いている。僕が今さら屋上屋を重ねる必要もあるまい。  この作品は犀星さんの全貌を描き出している。詩も、小説も、生きかたも、性格描写も、モラルも、人間観察も、何でもかんでもある。小説は平山平四郎の親の代から始まり、杏子と呼ばれる娘の成長とその結婚及びその破綻に終っている。これに副主題として、息子の平之介の結婚(とその破綻)をも扱っている。すこぶる自伝的であり、平山平四郎という一人の小説家の歩いて来た嶮しい道がまざまざと眼に浮ぶように書かれている。養母にいじめられていた「碌でなしの尻尾にゐる」「ひね餓鬼」が、いつのまにか「小説家に化け」て、生れた女の子を「これまで生きて見て来たあるだけの美しい女に、つくり変へようと」試みる、一種の教養小説である。  そこには小説家という職業に対する、作者自身のふてくされた自信が、杏子の亭主で、根気よく売れない原稿を書き続ける、亮吉という男との対比に於て、描かれる。平山平四郎は常に断固として彼自身であり、娘がどんなに可愛くても、こと小説に関しては「親も子もない」から、亮吉を売り込んでやる気持はない。  そこで彼はバカな娘が、バカな男に引っかかってじたばたしているのを、内心ではやきもきしながら、見ているばかりである。娘の杏子は、自分のバカさ加減を自分で充分納得してから、亭主と別れて、父親の許へ帰って来る。この娘は、平四郎と同程度に作者の分身であり、平山平四郎が|がん《ヽヽ》として動かないように、この娘もてこでも動かない。  小説の主題は明かに娘の結婚と、その失敗とにある。ところがそれは全体の半分足らずであり、そこに至るまでに、平四郎という人間の成長が、ゆっくりと物語られる。しかしそれは、これが自伝小説であるために、あの事件この事件が相継いで起らざるを得ないということではない。平四郎が子供の頃に苦労したとか、娘が生れた時に大地震に遭ったとか、戦争中には軽井沢に疎開したとか、そんなことが意味もなく並んでいるのではない。孤独な人間が、ただ自分一人を頼りに成長する。生れる以前に於て早くも運命に痛めつけられた人生を取り返すためには、彼は娘という分身の中に、自己の失われた可能性を育てあげるほかにはない。凡庸な願いであり、凡庸であるが故に強い。しかし人生は、偶然によって武装され、常に彼よりも百倍も悧巧であり、「憐れな親子」は、たとえ「大手を振つて歩いて」行こうとも、人生の一部分を失敗したことに間違いはない。  しかし失敗しても、そこには|がん《ヽヽ》として譲らないものがある。それがこの作品の前半部に、平四郎の生きかたとして既に示されている。とすればこの小説のモチイフをなすものは、この|がん《ヽヽ》としたもの、つまりは「怒り」ということになろうか。  犀星さんは、むかし「復讐の文学」ということを言った。今に至っても、犀星さんは同じモチイフによって仕事をする。この小説の初めの「血統」という章は、人生から無慈悲に投げ出された少年の怒りである。最後の「唾」という章は、娘の亭主に対する怒りの爆発である。この怒りは恐ろしい。犀星さんは、怒りをじっと堪える人だ。やみくもには怒らない。しかしその怒りは(結局は人生というものに対してだが)犀星さんの生きかたの中心を貫いている。この小説に出て来る娘の亭主にしても、また息子からさっさと別れて行くりさ子という女にしても、彼等自身の立場というものはあるだろう。しかし犀星さんに料理されたらもうおしまいなのだ。弁解の余地はない。彼等は犀星さんほどに、人生に対して正面切って怒ることが出来ないからだ。  この「杏っ子」は、そういう意味では、犀星さんという小説家を裸にした、真に人間的な記録である。「ぼうふらのごとき文学老人の一野人」などというものではない。どっしり坐った山である。 [#地付き](昭和三十二年十一月)     井上靖「天平の甍」(中央公論社刊)  天平時代、すなわち西暦八世紀の日本と唐とを舞台に、約三十年間にわたって、幾つかの運命の展開を描いた歴史小説である。  四人の年若い日本の留学僧が、第九次の遣唐船で、唐へと困難な航海に出発する。彼らのうちの二人は、伝戒の師を日本に招く使命を帯びて、唐僧|鑒真《がんじん》と交渉し、その承諾を得る。彼らは失敗を重ねたのち、鑒真の不退転の熱意にはげまされて、遂に第十次の遣唐船で日本へと戻るが、無事に帰朝したのは初めの四人の留学生のうちの、ただ一人にすぎない。或る者は病に倒れ、或る者は唐土をあまねく托鉢の旅にのぼり、或る者は妻子を得て、かの国にとどまる。また、滞在中ひたすら写経をこととして、その写し得た経文とともに海に溺れる僧もいる。  鑒真はわが国によろこび迎えられて、唐招提寺を建立するが、たまたま唐から渤海を経て送られて来た一個の甍《いらか》が、この寺の金堂の屋根を飾る。しかし送った人の名前は、遂に誰ともしれない……。  これは小説家の野心をそそる時代であり、井上靖さんがこの時代を描くことに、はげしい情熱を傾けたことは、読者に脈々と伝って来る。ただ、何分にも複雑な、解明のむつかしい時代であるから、多くの資料が用いられたとしても、読んでいてなお歯がゆいような、もどかしいような箇所があるのは、作者の罪ではないだろう。井上さんは、なるべく資料に語らせる方針を取って、平明に、感情を押し殺して、若い留学僧たちの運命をパノラマのように描き出した。もしも人物の内部にはいって、謂わばもっと井上靖流に書かれてあれば、一層の効果があったのではないかと、思わないでもない。  唐僧鑒真の姿が、あまりに鮮明にすぎて(恐らくは資料がそこに最も多かったせいだろうが)他の人物が影を薄くした嫌いがある。しかし作者の意図が、淡彩に描かれた青年たちの間から、この高僧の強烈な意志を浮び上らせることにあったとすれば、この方法は成功したと言えるだろう。  井上さんが題材に対して抱いたに違いない野心が、小説としてはそれほど野心的に感じられないのは惜しいが、歴史に正面からぶつかった力作として、読後すがすがしい感慨を覚えた。 [#地付き](昭和三十二年十二月)     松本清張「眼の壁」(光文社刊)  濃厚なスリラーである。充分に書き込まれた六百枚という枚数が、それにふさわしい重みを持っている。発端をなす手形のパクリ詐欺の部分が、申分のない的確な描写で、すぐさま読者を惹きつけて放さない。それに絡まって、三つの殺人事件がつぎつぎに起るが、それがすべて、新聞の社会面を思わせるような、刷りたてのインキのにおいをただよわせている。現実の持つ、なまの感じをすくい取って来る才能は、僕が松本清張で最も高く買うものだが、この作品では、特にそれが成功している。  詐欺にかかった会計課長が自殺し、義憤を感じた若い次長が、しろうと探偵の役をつとめる。相棒は友人の新聞記者である。警察の方ももちろん動くが、こちらの動きは弱い。しろうとらしく、なかなか事件のナゾがつかめないというのも、真実味があって悪くはないけれど、前作の「点と線」のような警察の活動が、もっと並行して描かれていれば、更に面白かっただろうと思う。主人公の一種の恋愛心理が警察と無関係な行動を取らせるのは、犯人を甘く見ているようで、せっかくのスリルが少し弱まる。新聞記者がスクープを狙って単独行動を取りたがる気持はよく分るとしても。  しかしこの作品を支えている最も興味ある点は、作者の自負する独創的なトリックよりも、アルプスの麓の山や村を、巧に小説の中に溶け込ませた腕前だろう。風景描写と、それに伴う空間的トリック、——表紙裏の地図が、大いにロマンチックな効果をあげている。この作者は、人間を人間くさく書く(というのは動機を大事にすることだ)が、それより風景を事件の中に持ち込むうまさの方が、作者の特質をなしているようだ。このスリラーの一種新鮮な感動は、謂わば犯罪の風景化の中にあると言えないだろうか。 [#地付き](昭和三十三年二月)     伊藤信吉「高村光太郎」(新潮社刊)  すぐれた、魅力のある詩人は、その詩の世界に、或いはその生きかたの中に、何かしら不可解な、謎のようなものを持っていることが多い。例えば、近代詩の双璧をなしている高村光太郎と萩原朔太郎とには、特にその感が深い。ただ、両者の謎は、必ずしも同じ性質のものではないが。  高村光太郎は、その生きかたに於て、最も不可解な、暗黒の部分を露出している。ロダンとロマン・ロランの影響を受けた、人道的、倫理的な「道程」の詩人、抒情的な「智恵子抄」の詩人、それとまったくコントラストをなす、戦争讃美の「大いなる日に」「記録」の詩人——。この二人の詩人の間に横たわる深淵は、高村光太郎が決して二重人格的な詩人でないだけに、謎を一層深めるものである。  僕は昭和十六年の秋から翌年の春にかけて、東京の駒込林町の高村さんのアトリエに、しばしば通ったことがある。そのころ僕は、或る雑誌のために、「ミケランジェロ論」を高村さんに書いてもらおうと思った。高村さんは、それを書くことをひどく嬉しがった。しかし原稿はいっこうに出来ず、僕はかえってそれを幸いに、何度も催促がてら、話を聞きに行ったものだ。それは「智恵子抄」の出版された年であり、それ以後、「記録」の戦争詩が次々と書かれて行ったのだが、僕には、そのことが常に謎のように映った。僕は戦争詩を、高村さんの口実、自分の本当の芸術を守るための、一種の口実として受け取っていた。しかし高村さんは誠実な人であり、口実はいつしか本物に変ったのかもしれない。  伊藤信吉さんの書かれた「高村光太郎、その詩と生涯」は、この点の解明に最も光線があてられている。尊敬と同情とを保ちながら、充分に批判的に、この詩人の持って生れた悲劇を究明する。詩の引用も多く、読んで愉しい。そして高村さんの生きかたはこれで確かに理解されるが、それでも欲の深い読者は、聡明でありながら暗愚な、誠実でありながら自己を裏切った、この高村光太郎の内部意識に、もう一度「なぜ」と呼びかけるだろう。伊藤さんの本はその意味で、読者をして自らこの問題に取組みたい気持を起させるものであり、解明であると同時に、問題の呈出であるとも言えるだろう。 [#地付き](昭和三十三年五月)     矢内原伊作「芸術家との対話」(美術出版社刊)  矢内原伊作は僕の親しい友人である。しかし彼の近著「芸術家との対話」を僕が手放しでほめあげるのは、決してそのために点が甘くなったせいではない。これは彼が今までに書いた最もいい本のように思う。詩人哲学者としての矢内原の本領が、ここに遺憾なく発揮されている。  彼は二年間パリに留学し、ジャコメッティの親しい友となった。そしてこの交友の結果(と僕は判断するが)彼は見事に「彼自身」になった。つまり「愛知の人」となった。その証明は、この本に収められた九人の画家、版画家、タピスリー画家、彫刻家などとの対話の中にある。彼は謙虚に相手の話を聞き、自分の註釈を加える。しかしその場合の彼は「ひたすらテープレコーダーあるいは伝声管であろうとした」にも拘らず、彼自身の最良のものによって芸術家たちの本質を突き、見事な作家論をつくりあげている。  もちろんこの本は、現代美術の理解のためにも重要な参考になるだろう。ミロやブラックのような有名な画家のみでなく、比較的知られていないリュルサやダ・シルヴァなどの紹介もある。すべてを通じて、芸術とは何かという問題が、熱っぽく議論されている。それはこの本が、ジャーナリストによるインタービューとしてでなく、詩人哲学者による対話として書かれているからである。  僕はこの本を繰返して読み、さまざまの感想を得た。この小さな本は、内容においてずっしりと重たい。それは誰に対してでも、愉しみと理解と思索とを与えるものであろう。 [#地付き](昭和三十三年七月)     サド「悲惨物語」(現代思潮社刊)  フランス十八世紀の生んだ奇妙な大思想家サドは、今世紀になってから、フランス本国で新しく見直されつつあるが、これは道徳や宗教などの既成概念を根本から転換させたこの作家が、現代のような混乱と喪失との時代に当然の復権を要求したものと言えるかもしれない。我が国に於ても、澁澤龍彦君が情熱をこめてその紹介に当り、次々に翻訳を示してくれたが、更にここに「悲惨物語」の出版を見た。  この本には中篇「ユウジェニイ・ド・フランヴァル」と「ジュリエット物語」の一部とを収めてあるが、前者は、所謂サド的描写は一行もない代りに、十八世紀らしい暗黒小説の見本として首尾整った見事な中篇である。自分の妻を憎んで自分の娘を愛した男が、その教育観、女性観、結婚観などを述べ、遂には悲劇的な行為のうちに破滅する。読者から見ればまことに異常な心理と行動なのだが、しかし旧来の道徳を偏見と見る作者の眼からは何等異常ではない。その自信ある態度の中にこの小説の迫力がある。  この中篇は、サドの他の大作とは違って、普通の風俗小説的な額縁の中にストーリイを収めてあるから、結末の勧善懲悪的なところは取ってつけた感じもするが、自分の思想に対する作者の自信が、特に「悲劇的」に小説を構成するために、こうした結末を用意したものであろう。小説家として見ても、サドは、ラクロやヴォルテールやレティフ・ド・ラ・ブルトンヌに劣るとは思われない。  サドの思想については、閉鎖的なサド世界を描いた他の大作を見なければ分らないが、ここに収められた「ジュリエット物語抄」などでは、あまりに小間切でかえって誤解を招きやすい恐れもあって、あらずもがなだったかもしれない。その点、サドの紹介は決して容易ではなかろうから、更に澁澤君の努力に期待したい。 [#地付き](昭和三十三年十一月)     室生犀星「我が愛する詩人の伝記」(中央公論社刊)    濱谷浩「詩のふるさと」(中央公論社刊)  室生犀星がその「愛する」詩人たちの伝記を書くとすれば、当然、小説家の眼で見た生涯ということになって、伝記作者の書く伝記とは違ったものになるだろう。況や室生さんはもともと詩人であり、詩人というのは得手勝手なものであり、客観的な材料を平べったく並べるよりは、面白いところばかりを感慨こめて歌うものなのだから、この十一人の詩人たちの伝記が、いっぷう変った性質のものになったのも当然である。初め雑誌「婦人公論」に一年に亘って連載され、そこでは濱谷浩氏のグラビア写真が、挿絵代りに本文を飾っていたが、実のところ、写真はなくても少しも構わなかった。というのは、本文の中に詩人たちの詩が巧みに鏤められて、これが挿絵の代りをつとめるからである。そして室生さんの「伝記」たるや、過去の場合の細密な描写があるかと思えばそっけない年譜がはいり、追憶かと思えば批評になり、全体が随筆のような、小説のような、詩物語のような、評論のような、何とも定義しにくい犀星一流の産物に出来上った。  選ばれた詩人たちはいずれも故人に限られたが、藤村白秋から立原道造、津村信夫に至るのだから、我が国近代詩の伝統はほぼ完全に辿られていると言える。勿論選ばれたのは、何も代表的詩人という客観的基準ではなく、室生さんの「愛する」詩人、それも多くは親しく交渉のあった詩人たちである。それも親しければ親しかったほど文章に感慨があり、例えば萩原朔太郎、堀辰雄、立原道造、山村暮鳥、百田宗治など、同時に作者自身の過去の姿をも描き出して、もはや単なる記録といったものではない。  その意味で残念なのは、雑誌連載当時の十二篇のうちから、佐藤惣之助の一篇が故あって単行本にはぶかれたことであろう。この一篇に室生さんの人間くささが、友情と信義とを傷つけることなく現れていただけに。  人間くささ、これが結局、この一巻の点鬼簿をつづる室生さんの持味である。往年の抒情詩人としてではなく、苦しみ抜き、生き延びた、頑固な小説家としての気魄が、故人たちの姿をなまなましく喚び起した。死んだ魂たちは、引用された詩の数行に声のない叫びをあげて迫って来る。僕はこの一巻を貪るように通読したが、また一面、何となく凄惨な印象をも拭うことが出来なかった。  詩人の生涯は、いずれの場合にもほとんど業苦というに近いが、詩そのものは常に生き延びて、それ自身の生命を持っている。「婦人公論」連載に当って不用の感があった濱谷浩氏の写真が、集められて「詩のふるさと」と題する一冊の写真集となった。これは人の心を愉しませ豊かな感動へと誘うもので、その理由は詩そのものが詩人の生涯とは無関係に、引用されているからであろう。  この写真集は、惣之助の代りに室生さんの金沢を加えて、詩人十二名にゆかりのある土地を写したものだが、写真に添えられた詩はしばしば写真そのものの持つ感動から離れている。詩はそれだけで生き、別に写真は写真だけで生きている。これで詩のふるさとが分るというような、解説的な便利さとは、まるで違ったものである。つまり室生さんが十一名の故人を相手に、詩に憑かれた人間の業のようなもの、延いては室生さん自身の業のようなものを剔抉して見せたのに対して、これは濱谷氏がその写真によって、氏自身の「詩」を示したものであろう。写真の芸術性に対して少々のためらいのある僕でも、濱谷氏の仕事には文句なしに感心したと、白状せざるを得ない。 [#地付き](昭和三十四年一月)  [#ここから2字下げ、折り返して4字下げ] 註 佐藤惣之助の一篇は後に新潮社版室生犀星全集に於て復元された。 [#ここで字下げ終わり]    瀧口修造「幻想画家論」(新潮社刊)  タブローと言えば絵を意味するように、現実が四角な枠の中に切り取られてしまえば、たとえそれが完全に写実的な手法で画かれているとしても、見る方の主観次第では幻想的に見えないことはない。まして主題が宗教や伝説や歴史に置かれていれば、画家の想像力がどのように作用しているかは論じないとしても、その絵の与える感動に幻想的要素を伴うのは当然である。ワトーの「シテールへの船出」とかドラクロワの「シオの虐殺」とかを、その例にあげることが出来る。しかし一方、画家が幻想的にしか物を見ない場合、写実的に画いても彼の眼が別の現実を見てしまった場合もあり、例えばエル・グレコは肖像画を画いても常に幻想的であって、こういう画家にとって、恐らく現実というものは全く独特の内的世界をつくりあげていたのだろう。  従って厳密な意味で幻想画家と呼べるのは、現実を幻想的にしか見ることの出来なかった画家、異常な内的世界を持っている画家のことであり、その数は決して多くはないが、しかし一度その魅力にとらえられた者は、彼等の幻想の世界から容易に抜け出すことが出来ない。絵はその場合、一つの技法なのではなく、一つの世界観にまで高まる。  ところで僕はこうした幻想画家をたいへん愛する者だが、恐らくは同じ嗜好の持主である瀧口修造氏が、その蘊蓄を傾けてここに上梓されたのが「幻想画家論」一冊である。氏は超現実主義の古くからの研究家であるが、新時代の芸術にのみ詳しいわけではない。巻頭のボッシュ論を読めば、この十五世紀フランドルの画家が、簡潔にその時代の中に捉えられているのを見ることが出来る。続いてグリューネウァルト、コシモ、ラ・トゥールを経て、ルドン、ゴーギャンの十九世紀に及び、ムンクやクレーやエルンストその他の二十世紀に至る。  これらの論文は初め「芸術新潮」誌上に「異色作家列伝」の題名で連載されたもので、必ずしも本質的な幻想画家ばかりが選ばれているわけではないし、この他にもまだ幾人も大事な画家の名前を挙げることが出来るが、著者の独特の好みは、これだけの画家群によっても充分に示されていよう。伝記もあれば絵画論もあり、面白い逸話もあれば作品の紹介もある。しかし何より全体を通じて、これらの不幸な(何しろ幻想画家たちは決して絵画史の主流を占めてはいないから)芸術家に注がれた著者の愛情が、暖く伝って来るような書物である。著者のエッセイを読み、巻末に集められた豊富な図版を眺めていれば、読者はそこに、幻想もまた一つの確実な現実であることを知り得るだろう。 [#地付き](昭和三十四年二月)     石川淳「霊薬十二神丹」(筑摩書房刊)  石川淳先生の近作九篇を収めた、近頃珍しいどっしりした美本である。何よりもまず本がいい。値段の高いのは残念だが、石川さんの作品はこういう贅沢な本こそふさわしい。近頃の先生の本筋は「紫苑物語」から「修羅」に至る中篇小説にあるので、その意味からここに収めた短篇はいずれも比較的筆のすさびといった感じのものだが、軽妙で、人をくっていて、端倪《たんげい》すべからざるものがある。  最も本格的なのは巻末の「怪異石仏供養」である。円朝の講釈もどきの題のついた、歴史の裏面史だが、筋の運びが鮮かで、古寺の石仏に端を発してみるみる大陰謀へと発展する。作者の空想のひらめくところ忽ち風を呼ぶことは、「霊薬十二神丹」しかり、「かくしごと」しかり、あまり短くて読み終るのが惜しい。これらは何れも時代物だが、集中の現代物四篇よりこっちの方を採るのは、僕のロマネスクな好みであって、作者の関知するところではあるまい。  更に浄瑠璃の台本が一つ、落語の台本が一つ控えていて、作者の足取の悠々たるには驚かされるが、これは羽目をはずした石川さんの茶目けの現れで、少しお遊びが過ぎるようだ。しかしこうした戯作的な心境が、現代物の短篇、例えば「鰐」の中にも、一種の冷やかな凝視となってうかがわれるので、作者が登場人物を操ること、恰もはなし家が与太郎を口車に乗せるが如くである。人物は舞台の上を右往左往するが、作者は勝手にしやがれと言うばかり。  戯作の精神はつまりは孤高の精神であろう。荷風先生が亡くなられて、戯作の本義は一筋にわが夷斎先生につながる。これほど自分勝手な作品ばかり書いて僕等読者に悦ばれるというのは、つまり石川さんの人徳であろうか。  とんだ書評となったが、相手が石川さんの本ではついこの始末。 [#地付き](昭和三十四年六月)     佐藤春夫「日本の風景」(新潮社刊)    井上靖「旅路」(人文書院刊)  ちょっとお断りしておくが、僕は気軽に旅行に出かけるたちではない。フランス語の「セダンテール」、訳せば「すわり屋」とは僕のことで、どうも坐りこんでばかりいる。それでいて旅行記を読んだり、風景の写真集を眺めたりするのはこよなく好きである。  風景というのは変なもので、天下の名所旧蹟が見る人によって良くもなれば悪くもなる。虫のいどころもあろうしお天気の具合もあろう。従って風景は、結局のところその人の心象風景であり、魂の状態が反映することによってその価値を決定する。いっそ実物を見るよりも、うまく写された一枚の写真を見る方が、想像力を刺戟して面白いという、僕みたいな物臭の意見も生れて来る。  佐藤春夫先生の「日本の風景」は、まさにこの盲点をついた好著であろう。そこに取り上げられた風景は、作者の年代記に従い、その時々の心境とともに見られている。必ずしも客観的ではない。北海道狩勝峠の展望は亡弟の追憶につながり、十和田の印象は悠々たる大名旅行の産物。佐久の風物は疎開者の眼で捉えられ、熊野の美は望郷の想いによって彩られる。但し欲を言えば、先生がこれらの風景に基いて今までに書かれた小説随筆の類に較べて、少々あっさりしすぎているのが残り惜しい。  井上靖氏の「旅路」は、氏の書かれた多くの小説の中から、風景描写に秀でた部分を選び出した、一種の美文集である。しかし小説というものは、その風景を知らない読者にそれを喚起させる作用があるから、写真を示すことが必ずしもプラスになるかどうかは分らない。とは言っても、この二冊の本に収められた数多い写真を眺めながら、或いは佐藤先生の心境に思いをいたし、或いは井上靖氏の作中人物の感慨に同感するというのは、僕みたいな「すわり屋」にとって、文句なしの愉しみであったことは言うを俟たない。 [#地付き](昭和三十四年八月)     森有正「流れのほとりにて」(弘文堂刊)  これは複雑な内容を持つ書物である。一つの魂の内面への旅路を描く、と言えば当るだろうか。一人のパリ在住の哲学者が西欧文明について日本の友人に書き送った手紙である、と言えば皮相にすぎようか。西欧文明が彼の魂といかなる微妙な交感を奏でたか、それが観察と分析とによって、認識と感覚とによって、捉えられる。スペイン、イタリアや、バルト海沿岸都市や、イギリスへの旅行があり、著者は或いは海を見て感動し、或いは教会を見て感動する。彼は文明の本質を思い、また彼自身の感動の性質を分析する。しかし同時に、彼は幼年時代の夢を見、その夢の中に人間の実存的な悲しみを見たりもする。一切の体験は彼の内部に集積し、バッハの音楽の印象のように、魂の流れの濃い密度をつくる。これは博識をてらった書物でも、西欧文明を紹介する書物でもない。問題は常に、森有正というこの一人の人間が、彼自身の魂を求めてさ迷い行く過程であり、ただ彼がパリの客舎にあるという異常な環境によって、その孤独を一層切実にさせ、その感覚を一層鋭くさせているにすぎない。  これは「マルテの手記」とどこかしら親近性を持っている。もっとも小説ではないし、マルテが神の方に近づくのに対して、森有正はギリシャの方へ歩みつつあるように見える。しかしこの詩人哲学者は、教会の前で、茫漠たる風景の前で、美術館の中で、パリの街なかで、そして夢の中で、何としばしば感動し、人生の本質のただ中に直立することだろう。彼の感動は純粋であり、その描写は小説的であり、読者をして深い共感の中に誘い込む。この一冊の書物は、少くとも僕にとって、最も美しい音楽を聞くのと同じ質の魂の昂揚を感じさせる。  短い枚数で、こういう書物の感想をしるすことは不可能である。従って僕は、僕という人間の責任に於て、森有正の「流れのほとりにて」を無条件に推薦するほかはない。 [#地付き](昭和三十四年八月)     室生犀星「かげろふの日記遺文」(講談社刊) 「かげろふの日記遺文」は、ただに室生さんの王朝小説の集大成であるばかりでなく、犀星文学の固有の持ち味を遺憾なく示した作品であろう。と言っても、これは必ずしも面白い小説とも、整った作品とも言いがたい。室生さんはあとがきに、この作品が「苦渋停滞することなく書き綴られた」と述べられているが、それは作者の霊感がいかに滾々と溢れ出したかを示すもので、読む方の身になると、筋を追って気楽に読み進むことの出来るようなものではない。筋はあっても、作者の情熱は、永遠に変らない人間の哀れさ、特に女の哀れさを、王朝の小説の額縁の中に捉えることにあった。従って出来上ったものは、一種の人生観小説といったようなものである。  原典として「蜻蛉日記」があることは題名からもうかがわれるが、「蜻蛉日記」の作者である道綱の母やその夫の藤原兼家が登場するという舞台を借りていても、ここに演じられるドラマは、原典の心境小説ふうの、一人の女の内面性のみを追求したものと異って、より立体化された構成を持っている。物を書く才能があることによって、自己の肉体を恐れ、愛の中に自己の一切を投げ込むことの出来ない女、紫苑の上という名前を与えられているが、この原作者の面影を伝える女は、必ずしもこの作の女主人公ではない。室生さんの詩的関心は、原典のうちにわずか数十行しか現れない「町の小路の女」に冴野という名前を与え、彼女に主座を占めさせる。これは誰をも愛することが出来ないと知りながら、肉体のほかに男に与えるものを持たない女である。この目ざましい対照に、更に時姫という身分の高い本妻を加えて、三人の女たちがそれぞれの愛の形を示し合う。これは貴族が幾人もの妻を持つことを許された時代の物語だが、そうした枠を取りのぞけば現代にも通じるドラマであろう。  室生さんは藤原兼家という男を通して彼の経験する三通りの愛に深い省察を下す。愛は本来は一つであり、冷たい愛や暖かい愛があるのではなく、一つの愛が赤熱する時もあれば冷却する時もある。しかしそれが男の眼を通して見られる時に、或る愛は現象というにすぎず、或る愛は永遠に通じる。兼家の心が常にこの冴野という女に帰って来るのは、結局は、後世に残るべき物語を書く才能がなくても、そこに男の心を捉えて離さぬ「永遠に女性的なもの」があるからに違いない。道綱の母を、原典をたどって小説に仕立てることは、室生さんにとって易々たる仕事だったと思われるが、それにもまさって、「墓所《はかどころ》さへ失つてゐた町の小路の女の、みじかい生涯」を見つめることに、作者の創作衝動があったように思われる。  それは時姫や道綱の母のような「才色兼備の世界」から、兼家が「悪い素性の女」である冴野のもとに二年間も通うに至った情熱と等しいものであり、「人間にぢかに要るもの」を用意していた冴野の美しさに、作者もまた惹かれたからに他なるまい。  室生さんはこの兼家という男を、「やんちや」とも「横着者」とも「無頼の男」とも書く。女たちの間を浮草のように流れて行くこの男の中に、常に求め、常に迷い、常に真実の愛を捉えようと悶えている男の運命のようなものがある。作者はこの小説のモチイフとして、「私自身は何時も生母にあくがれを持ち、機会を捉へては生母を知らうとし、その人を物語ることをわすれないでゐる」と書いていられるが、どのような男も、「生母にあくがれを持つ」ように、永遠に女性的なものを憧憬してやまないだろう。それは横着に見え、無頼に見える男にあっても、一種の本能であり業であろう。一夫多妻が認められていた王朝時代にあっても、女たちはこうした男の業を嘆き、男の不実を責めるが、冴野はそれを知るが故に、かえって流転する相の中に永遠に女性的なものを刻み込むのである。従って室生さんの創造した多くの女人の中で、この冴野ほど作者の感慨を、作者の夢を、托され、それを具現した人物は稀ではないかと思う。それには紫苑という好敵手を併せ描くという手法が成功したためもあるが、何よりも作者のモチイフの強さが強く作用していることは否めないだろう。  従って初めにも書いたように、これは必ずしも面白い小説とは言い得ない。「われわれは何時も面白半分に物語を書いてゐるのではない。」このあとがきの文章には室生さんの烈しい気魄が見られる。「名もない人に名といのちを与へて今一度生きること」——そこに作者の念願があるとすれば、小説的な綾、形式上の完成なんかは実はどうでもいいのだ。勿論ここには、文学的に注目すべき手法が色々ある。例えば生霊の現れる場面や夢の場面などに超自然的な描写があり、王朝物語にふさわしく第一人称と第三人称との混り合う部分がある。また何よりも、飽きることなく主題の周囲をさ迷い歩く妖怪のような独自の文体がある。そしてこの文体によって、作者は小説的興味を追うよりも、愛の本質について省察することの方に忙しい。従って小説というよりは、或る部分ではエッセイに近くなる。即ち室生さんが、一生がかりで突きとめて来た人生の深い智慧のようなものが、この作品の中から溢れ出して来る。面白いとすれば、そういう種類の面白さである。 「杏っ子」以来の室生さんの奔放をきわめた仕事ぶりは、或いは「蜜のあはれ」となり、或いは「かげろふの日記遺文」となった。いずれも冒険的な試みを敢てし、旧態にとどまることを潔《いさぎよ》しとしない。文学の道を長く遠く踏んで来られたこの作者が、形式的完成ということを犠牲にしてまで、その意図するものを描き切ろうとする態度には敬服のほかはない。「かげろふの日記」はその意味で、まさに室生犀星以外の何人も書き得ないような、独特の渾沌たる世界である。 [#地付き](昭和三十四年十一月)     谷崎潤一郎「夢の浮橋」(中央公論社刊)  谷崎潤一郎氏の「夢の浮橋」は中篇小説と呼ぶほどの分量しか持っていないが、谷崎氏の作品の中でも印象極めて鮮明な傑作であり、近来の我が国の文学界において特筆すべき作品であろうと思う。しかるに雑誌に発表された当時、世評は大して芳しくなかった。これは文芸時評家が少しせっかちにこの作品を読んだためではなかったろうか。僕たちは近頃氾濫する流行病的作品を送迎するあまり、作品を味読するということが少い。しかしこの「夢の浮橋」は、読者の側の想像を交えながら、謂わば王朝の物語を読むように、ゆっくりと味わうべき性質のものである。  昭和六年に書かれた私記という体裁を持つこの小説は、第一段に早く亡くなった生母への思い出を、第二段に生母と同じ名前をつけられた第二の母の印象を、第三段に父の死後、妻をもらってからの私が、妻や母と送る生活を、描いたものである。この作品の真の主人公は、最も筆を惜しみながら書かれている父で、その一生は異常ともいえる女性崇拝によって貫かれる。最初の妻を愛するあまり、次の妻を身代りとして愛する。父の意志は、死後に於ても息子や嫁を束縛してやまない。  その執念を描くのに、作者は当の父によってではなく、息子の一人称描写を以てした。そこに既に想像力に訴えるものが多分にある。  息子の側の私記として見る時は、第一段の生母の思い出は全篇を貫く主調低音となる。この発想はすなわち女性崇拝の主題につながる。第二段は意識の奥深いところにおける恋愛感情である。これは第三段に至って更に詳しくなるべきところを、作者は私記という形式を採用することで、わざと筆を惜しんでいる。「だから私は、決して虚偽は書かないが、真実のすべてを書きはしない。」そのために、読者の側にすべての真実は告げられず、従って主人公の感情もまたおぼろげにしか分らない。しかしそのために、女性崇拝の主題はかえって鮮明に印象づけられる。筆は淡々として事実のみを語りながら、異様な場面の設定には劇的な効果を持ち、暗示的な方法で一貫している。  生母への愛情を描いた作品には、「母を恋ふる記」を初めとして、近くは「少将滋幹の母」がある。女性崇拝はそこから必然的に導き出された主題で、谷崎氏の殆ど全作品を彩っている。しかし「夢の浮橋」は、作者が同じ主題をなぞったものではない。またここには明かに「源氏物語」の影響も影を落しているが、その現代版というわけではない。これは既に古典的な格調を持つ物語ふうの小説である。作者が主題にふさわしいストーリイと形式とをここで発明したものである。口述筆記で書かれたからと言って、決して老年期の衰弱した創作力の産物ではない。このことは同じ書物に収められた随筆回想の類と較べてみれば、ずっしりした重さを持つ点で、如何にこの小説の中に作者の文学的情熱が閉じ込められているかがうかがわれると思う。  谷崎氏はいま蓐中《じよくちゆう》にあると聞くが、一日も早く本復されることを願う。「夢の浮橋」はこの後の作者の作品を更に期待させるのである。 [#地付き](昭和三十五年三月)     白井浩司「小説の変貌」(白水社刊)  白井浩司は僕の年来の友人で、昔も今も実に熱心にフランスの新しい作品を読み、かつ論じる男である。昔も、というのは僕が彼と同じ職場で働いていた戦争中のことだから、その頃は二人とも若くて、しょっちゅう文学談を闘わせていた。サルトルという新人が作品を書き始め、その短篇や評論がN・R・Fという雑誌に載るのに立会って、せっせと読んでやたらに感心した。サルトルの最初の小説「嘔吐」に至っては、白井は当てもないのに翻訳を始める始末、僕の方はサルトルの評論の影響で、フォークナーの仏訳を捜して読んだ。今日になって、サルトルもフォークナーも世界の一流として誰でも認めるが、僕らは二人とも、一九四〇年代の初めからそれを見抜いていたのだから、まあ炯眼といっていいだろう。  ところでその後も、白井浩司はますます熱心にフランスの新文学を研究することをやめない。僕の方が次第に趣味的にしか本を読まなくなり、それに十九世紀の文学の方にそろそろ溯って行きたくなっているのに、彼は常に二十世紀文学の専門家として、依然として、若々しい情熱を注いでいる。何しろ大作家と無名作家とを問わず、どんな作品にも目をつけ、それをまた実に愉しげに読む点は二十歳の昔と変りがない。れっきとした大学の助教授だが、教師くささがなく、興味が常に新鮮で目が鋭く、読みが深い。その白井浩司が、フランスの現代文学について語った評論をまとめて「小説の変貌」が出版された。ためになるばかりか面白いという点でも出色のものである。  ここには大して盛りだくさんの論文があるわけではない。精選されて、大体のところサルトル、カミュ、マルロー、及び「アンチロマン」と「メタクリチック」とが主流をなしている。それに簡単な文学史や、他の作家、批評家の紹介が、主題の説明として附け加えられている。このうちサルトル、カミュ、マルローに関する論文は、彼の年来の実力をうかがうに足りるものだが、やはり彼の本領は若い小説家や若い批評家を論じたあたりに見受けられるようだ。「アンチロマン」はわが国でも少しずつ翻訳が出はじめて注目を浴びるようになったが、こうした新しい運動は、移植される際に、公平かつ聡明な批評家によって援護されなければ、いたずらに持ち上げられるか、いたずらにけなされるかのどちらかである。その点で白井はまさに適任者であり、僕たちは彼の鑑賞眼を信用して、それがどんな運動なのかを要領よく教えてもらうことができる。  白井はサルトルから出発して「アンチロマン」に行った。サルトルやカミュの成長の跡は、彼自身の成長と密接に結びつく。マルローやチボーデは、既に僕らの学生時代にその代表的作品を発表し終っていて、僕らはそれを遺産として受け入れていた。従ってこの「小説の変貌」は、批評の変貌をも含めて、白井や僕のような世代が、どのようにフランスの現代文学を見て来たかの一つの証拠のようなものである。この一冊の評論集は、その意味で単なる外国文学の紹介書とは違った内的な持続に貫かれている。それがこの本の魅力の一つをなしていることは、友人として実に悦ばしい。 [#地付き](昭和三十五年四月)     「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊)  芥川龍之介には、澄江堂や我鬼の号のほかに、三拙漁人という号がある。詩、書、画共に優秀ならずとの卑下の意味だと、小穴隆一氏は註している。なるほど詩も書も画も、彼は本業として試みたわけではない。詩は、短歌や俳句を含めて、彼が生れながらに詩人であったことを示すに足りるものだ。ただ彼は、すさびとして詩を書いたにすぎないから、活字で読むよりも、筆で書かれたのを味わう方が、遥かに彼の詩人気質に触れることになろう。詩人というより、文人墨客と呼んだ方が、その場合にふさわしい。そこで詩、書、画は一体となり、巧拙などということを問題にしない。  芥川龍之介は、僕なんかにとっては、ちょうど父親の世代に当る。今日ではもう文人趣味は影をひそめたから、芥川の遺墨を嘆賞するのは古風であるかもしれない。しかし九十九点の書画を収めた、小穴隆一氏の編纂解説にかかる「芥川龍之介遺墨」一巻をひもとく時に感じる爽快感は、必ずしも懐古趣味というだけではない。  芥川はやすやすと、愉しげに筆を走らせている。せめて夏目漱石の域に達したいと、彼は望んだらしいが、漱石よりも一段と遊びに徹している。漱石の方がもっとくそ真面目である。しかし芥川の書画は、機智にあふれる詩句や、神経質そうな繊細な筆づかいに於て、彼の精巧な、謂わば人工的な散文芸術と、表裏をなしている。芥川が、日常の時々刻々に於ても、常に芸術家としての構えを崩さなかったことが、つまりこうした気安い遊びの中にも、彼の芸術家としての気魄が漲っていることが、直ちに看て取られる。遊びは遊びでも、そこには芸術家としての芥川の全責任がある。  と言っても、決して固苦しいしろものではない。句はすべて巧みであり、書はすべて風格がある。中でも軽く画をあしらって、座興ふうに書かれた句なんぞの風味は、実に捨てがたい。僕はこの本を終日ひねくりまわしてなお飽きなかった。 [#地付き](昭和三十五年四月)     室生犀星「黄金の針」(中央公論社刊)  女流作家は黄金の針をもって縫うそうである。さすがは室生さんらしい、ちょっとお世辞の利いたうまい表現である。「女流評伝」という傍題のあるこの「黄金の針」は、十九人の女流作家について、室生犀星の随筆的評伝をしるしたもので、作の構成から言えば、前に出た「我が愛する詩人の伝記」とよく似ている。ただこの新作の方は、「我が愛する女流の評伝」とは言いがたいだろう。つまりお世辞のように見えて、その実、針をふくんだ文章もまじっていて、ちくりちくりと人を刺すからである。  一般的に言って、室生さんは甚だ女性に甘い。従って女流作家に対しては、辛い点がつく筈もなく、めったに悪口を言われることもない。なんでもその昔、文芸時評で吉屋信子さんの悪口を言われて、その後長い間心臆した話がこの集の中にある。それがどうも自戒となったらしい。この集の中の先生の昵懇《じつこん》のかたがたは別として、お馴染でない作家にはわざわざ訪問して材料を得られているが、これなんかは相手が女性であるからこそ室生さんの足を軽くしたので、いそいそと出かけられる時の様子が目に見えるようである。  僕なんかは作家に女流男流の区別があることを大して意識していない。個人的な生活にもいっこう興味がない。室生さんだって、そんなに興味があるわけではあるまい。とすれば、室生さんの目玉が眺めるものは、女流作家という流行現象ではなく、彼女の中にある「女」そのものであろう。この一巻の中で、面白いものとやや月並なものとを区別するのは、この女くささが濃厚に出ているか否か、また従って、それを書く犀星老人の男くささがどのくらい発散しているか否か、にかかっている。いつぞや森茉莉さんが犀星を論じた名文があったが、この集の中の茉莉さんを論じた一文もこれまた名文であり、丁々発止という気がした。  心底には意地の悪いところがあり、それを文章のアヤでたくみにお世辞のように見せるところ、室生さんは老獪である。 [#地付き](昭和三十六年四月)     「ゴーガン」(美術出版社刊)  この数年来、ポール・ゴーガンの復興はめざましいと言わなければならない(僕はゴーギャンと表記することにしているが、ここでは訳書に従ってゴーガンと書く)。特に昨年春、パリのシャルパンチエ画廊で催された「ゴーガン百点」と名づけられた展覧会は、珍しい作品や資料を多数擁して、世人の関心を一層高めたようである。また研究書の方でも、一九五八年のジョルジュ・ウィルデンスタイン編の「ゴーガン、新資料集」、五九年のルネ・ユイーグの著書、六〇年のレイモン・ナセンタの著書、及びアシェット書店の「天才と現実」双書の一冊として刊行された「ゴーガン」、これは九人の専門家の共同執筆より成り、最も注目すべき成果と思われるが、とにかくぞくぞくと刊行されつつある。  画集の方でも種々の刊本があるが、僕の見たところでは、今日までに最上の効果をおさめた原色版の画集は、エブラムス社刊の「ゴーガン」であろうと思う。スキラ版は華麗で、シェーン版は渋いが、このエブラムス版は過不足なく落ちついた色調を出している。それに原色版の判型も大きく、かつ四十八枚という多数を含んでいる。もしゴーガンの画集を一冊だけ選ぶとすれば、これにまさるものは見当らない。ただ値段の高すぎるのが玉に瑕である。  今日、美術出版社から出版された「ゴーガン」はこのエブラムス版の日本語版である。というのは、原書のロバート・ゴールドウォーターの解説をそのまま日本語に翻訳した以外は、原色版四十八枚と単色版とはそっくり輸入したものである。原色版はケルンの工場で印刷されているから、エブラムス版と甲乙がない。それでいて日本語版の値段が原本の半値以下というのは、いかに我が国では本の値段が安いかという見本のようなものと言える(ただし原本には水彩と版画とをオフセットに複製した十五頁があり、これが日本語版では欠けているが、この部分は原本でも効果が悪いから、大して痛痒を感じさせない)。  解説者のゴールドウォーターは、ニューヨーク大学の美術史の教授で、権威のある批評家と目されている。その解説には特に生彩のある議論が見られるわけではないが、まず妥当なものであろう。選ばれた作品は、ソヴィエトにある絵を一点も含んでいないのが残念だが、印刷効果の優秀さと相俟って、いずれもゴーガンの素晴らしい感覚を伝えている。これらの複製を見た人が、たちまちゴーガンの魔法に捉えられることは確かだと僕は思う。  最後に細かいことだが、二、三気のついた主な点。「婦人像(マリー・ヘンリイ像?)」とあるのは、リウォルド「後期印象派」三〇九頁にあるように、マリー・ラガデュ像が正しく、「ブルターニュの農婦」一八八八年作とあるのは、画面の書き込みによって一八八六年作が正しい。年譜のうち「アヴァン・エ・アプレ」の執筆は一九〇三年。また翻訳の部分に、「ポン・タヴァン派」とあるのは、これはブルターニュの特殊の発音ゆえ、ポン・タヴェン派とあるべきだし、「われら何処にありや」は「我々とは何か」でなければ、ゴーガンの遺言的傑作の意味を間違えることになろう。絵の題名に原語を附記された方が、こういう書物ではより親切ではなかったかと思われる。  というような点はほんの瑕瑾であって、僕のようなゴーガンの愛好者は、この日本語版が我が国で大いにもてはやされ、不幸な画家を一層僕たちにとって身近な存在にすることを祈ってやまない。と共に、同様の企画がぞくぞく試みられんことを切望している。 [#地付き](昭和三十六年五月)     寺田透「作家論集・理智と情念・下」(晶文社刊)  寺田透の「作家論集・理智と情念」は、二冊本のうちの下巻である。新しい出版社のために著者が編んだ本で、上巻の方はまだ出ていない。だから下巻だけで全体を批評することは出来ない。この巻には昭和期の作家たちのうち、芥川龍之介、横光利一、葉山嘉樹、中野重治、梶井基次郎などを論じた文章と、和泉式部についての論文などが収めてある。絶版になった「作家私論」に所載のものに、以後の新稿を加えて成ったものである。  寺田透の著作では、「文学 その内面と外界」が最も作者の原理を示していたと思われるが、この本は謂わばその応用篇である。寺田透の批評の魅力は、取り上げた作家の作品に密着して、自在に引用文などを加えながら、その作者の精神の襞をくねくねと通り抜けて、いつのまにか読者を寺田透その人の内部に連れ込んでしまうところにある。その道案内のしかたがいっぷう変っているので、論じられている対象の影がうすれ、話者の声のみが耳について、読者が置きざりを食う場合もないわけではない。「対象について言ひ得るすべてを言ひつくすことは避けられねばなるまい。そのとき批評文は美に殉ずる。」という一節からも分るように、読者の方でも充分に想像力を駆使して裏の裏まで読まなければ、道に迷ってしまうだろう。寺田透の批評には噛んでふくめるようなところは微塵もないから、読者の方が丈夫な歯を持っていなければなるまい。  そこで彼の書く作家論は、彼が「確かな手触りのある魂を自分のそばに引き寄せたいといふ気持」が強く動いた場合に、独特の光芒を発する。この集の葉山嘉樹とか、前著「詩的なるもの」に収められた岩野泡鳴とかは、まさに彼において知己を得たものであろう。中野重治の詩を論じた文章などは暗きをもって暗きを照らすようなところがあり、そこに漂う薄明の美しさは、対象になった作家とこの批評家との間に一種の詩的な共鳴音をひびかせて、批評文の一形式をなしているように思われた。 [#地付き](昭和三十六年五月)     「ポポル・ヴフ」(中央公論社刊) 「ポポル・ヴフ」と呼ばれるものは、中米グアテマラの原住民であるマヤの古代神話を書きしるした書物である。その原本はいつの時代にできたのかよく分らない。十八世紀の初めに、原住民の間に伝って来たその原本を、スペイン人の神父が借り受けて写し、それにスペイン語の訳をつけたものが、最も古い文献であるらしい。原本の方はなくなってしまったが、しかし神話というのは大体そんなもので、厳密なテキストが残っていたらかえって不思議である。  そこで、この神話の初めの方には、少々ばかり旧約聖書と似た部分がまじっているが、そのあとは徹底的に、ヨーロッパ的な神話とは異質である。夜の世界に住んでいた神々はまず人間をつくったが、これは出来そこないで猿になった。次につくられた人間は(とうもろこしが材料である)四人いて、いずれも世界をすみずみまで見渡すだけの視力をそなえていたから、神々は自分たちに似すぎているのを心配して、人間の眼にかすみを吹きかけた。だから人間は近くのものだけしか見えなくなった。  マヤの神話はたいそう土俗的で、文明人の持っている神話にくらべると奇想天外なことが多い。神々と人間のほかに、虱《しらみ》や|がま《ヽヽ》や|へび《ヽヽ》や|かに《ヽヽ》や蒼鷹《あおたか》や、いろいろな小動物が出て来て、生活に密着したところを見せている。マヤの失われた文明の一つの証拠として、この神話は明るくて、素朴で、非合理で、かつ愉しい。  この珍しい書物は、原地に親しい外交官である林屋永吉氏がスペイン語から翻訳されたもので、一種の気品のある文体で統一されている。神話を現代語に訳すのは相当な難事業だと思うから、この翻訳は珍重すべきものであろう。  また北川民次氏のさしえやカットが本文を飾り、この書物を一層愉しいものにしている。比較神話学の資料というよりも、樹下そぞろに繙《ひもと》くのにふさわしい。 [#地付き](昭和三十六年七月)     フランクフォート「古代オリエント文明の誕生」(岩波書店刊)  考古学という学問は、その成果だけを示されると、素人にとってもなかなかに愉しいものである。それは紀行的興味や推理的興味をも喚び起すし、また発掘された絵画彫刻や遺跡の紹介は、既に美術の領域にも属していて、現にアンドレ・マルローとジョルジュ・サルの監修になる「フォルムの世界」という美術シリーズは、アンドレ・パロによる「シュメール」と「アシュル」の二巻を出している。エジプト学に対抗すべき古代オリエント学は、発掘が進むにつれて、ほんのここ二、三十年の間に驚くべき進歩を遂げた。従ってその解説書のようなものも、ぞくぞくと翻訳されつつある。  このフランクフォートの「古代オリエント文明の誕生」は、そうした通俗考古学やオリエント学入門の類とは、少しく違う。何よりもこの著者が(すでに故人となったが)エジプト及びオリエントに関する碩学であり、この本がその学殖を踏まえた大学での講演であることから、二百頁に満たない小著であるとはいえ、内容は甚だ高度のものである。  古代の発掘品の写真版などを見ているうちに、僕らが文学や美術の起原をたずね、延いては文明の起原をたずねる気になるのは当然のことだと思うが、この本はエジプトとメソポタミア(つまりシュメール)に於ける文明社会の発生を考察している。この二つは異質の文明で、エジプトは王権によって、メソポタミアは神殿共同体にもとづく都市によって、発達した。そして前者は具体的なものを好み、後者は抽象的なものを愛した。この異質の文明が、それぞれ如何にして発達し、如何にして(いつ、どこで)接触したのか、という謎が、できる限り資料に忠実に、本文および附録で追求されている、と言っても推理小説ではないから、答えは簡単には出て来ない。また著者は決して興味本位に書いているわけではない。  この本の第一章は、シュペングラーやトインビーなどの文明論を批判し、彼らの抽象理論がヨーロッパ中心であったことを指摘している。それに対して著者は、成熟期のその文明の正統な表現に精通した上で、文明の「形体」の出現を観察しようとする。著者には先入見というものはないし、精通という点では、人後に落ちないだけの自信がある。そこのところの、石橋を叩くような慎重さが、この本の強みでもあれば、また少々退屈なところでもあろう。 [#地付き](昭和三十七年二月)     フェリックス・クレー「パウル・クレー」(みすず書房刊)  初めに作品がある。次に作者自身による解釈、つまり日記や書簡のようなものがある。次に他人がそれに施した解釈、つまり伝記や研究のようなものがある。  パウル・クレーに即して言えば、我々は昨年の秋、ベルン美術館の好意によってクレーの作品百点を東京で見ることが出来た。それにクレーは一般にその作品があまり大きくないせいもあって、複製原色版で見てもひどくその印象が違うということはない。クレーは恐らく、わが国で最も愛されている現代画家の一人に数えられよう。  グローマンの綿密な研究はまだ翻訳が出ていないが、クレー自身の「日記」は、すでに昨年邦訳(新潮社)が出た。これは貴重な資料で、我々はそれによって画家自身の内部的成長のあとを辿ることが出来た。  それに続いて、今度新しく出版されたフェリックス・クレーの著書「パウル・クレー」は、謂わば作者自身の解釈と、他人による解釈との両方を合せたような、独特の内容をそなえている。というのは、この著者はパウル・クレーの息子であり、この本は父親の覚え書、手紙、日記、草稿などをまじえながら、しかも全体として客観的な価値づけを試みているからである。「日記」がクレーの三十九歳までで終っているのに対して、この本では全生涯にわたる伝記が、家族や友人たちの証言をあしらいながら述べられ、さらに「クレーの創作における主題」という七項目におよぶ分類とか、バウハウスにおける講義草案などが、加えられている。  クレーは几帳面なたちで、自分の全作品の目録をつくっていた。こういう性質はそっくり息子にも伝っているから、読んでいて少々こちらがくたびれるのはやむを得ない。しかしこの、ごく身近から見られた芸術家の肖像は、肉親の情を割引しても、みずみずしい人間的な魅力を湛えている。妻子や友人達へのこまやかな愛情、音楽好き、旺盛な読書欲、ユーモア、そして芸術の道を一歩一歩あゆみ続ける超人的な努力。それらは「日記」のための索引の役目を兼ね、しかも「日記」だけではつい見すごしがちな点を、拡大して見せてくれる。  従ってこの本はクレーの作品を愛する人にとって、面白くて有益なことは間違いない。但し(と敢て言えば)我々はこの本を閉じてからあらためてクレーの複製を眺め、「しかしなぜ」と呟くことになろう。クレーには、どのような解釈によっても解くことの出来ない|なぞ《ヽヽ》があり、その秘密は、結局は、彼の作品そのものから立ち昇っていることに、気がつかざるを得ないだろう。 [#地付き](昭和三十七年六月)     安東次男「澱河歌の周辺」(未来社刊)  一、安東次男の「澱河歌の周辺」は、ちょっと見ると近作を適当に集めたエッセイ集の如くである。確かに作者のこの数年来の仕事が並べられていて、蕪村と芭蕉との作品評釈があるかと思えば、ランボー、ボードレールの二詩人と画家ルドンについての作者の意見があり、ダダとシュルレアリスムに対する鳥瞰図があり、明治の浪漫詩におけるルビの問題を扱った論文がある。しかしさてその一つ一つを、研究とか、評釈とか、解説とかに分類するとなれば、これがどうも漠然とエッセイとでも呼ぶほかはないような、甚だ奥行のある代物に仕上っている。しかも視界が広いにしては、同じ光源からの強烈な光線が全域に行きわたり、そこに常に同質の精神の活動がある。一冊の読後感は、個々のエッセイを読まされたという印象ではなく、全体としての一個の精神の存在を認識させられたということである。  一、そこで作者の精神は何かと言えば、それは詩人的発想というものであろう。詩人は一粒の種子から収穫へと進む。発想から定着までに彼の精神が格闘する。しかしまた反対に、他の詩作品を定着から発想へと引き戻すこともできる。それだけの批評力のない詩人はとても本物とは言えない。この書物の場合は、作者は彼に親しい詩人たちの根源へと溯るのである。  一、蕪村や芭蕉から選ばれている作品は、その数は決して多くはない。しかしその一つ一つに密着した作者の視線はすこぶる微視的である。但しどんなに考証が綿密であり追求が論理的であっても、作者の位置は原作者の魂のうちにあるので、傍観者としての学者の立場ではない。つまり作者は弁護側の証人であって、検事でも裁判官でもない。選ばれた詩人たちが安東の好みを色濃く出しているのも当然である。  一、蕪村の、それも「澱河歌」という比較的知られていない作品を中心にした部分が、作者の骨頂を示すものであろう。ここには、作者がみずから淀川に対して持つ親近感が、原作者のイメージと重なり合っている。エロチックな考察にしてもこれはカビの生えた考証からは決して生れないものであろう。  一、蕪村では俳句と絵とが一体であることは誰でも言う。しかしそれは盾《たて》の二面なのではなく、蕪村という「幻視者」の根本的な芸術観から生れて来ている。安東次男は、詩に対してばかりではなく美術にも明るい。しかし彼の蕪村解釈が面白いのは、原作者の発想をその根本から照明している点にある。  一、一つ一つの言葉を感覚的に所有しなければ、詩を創造することも、また他人の詩を味わうこともできない。このエッセイ集は、まさに言葉の美しさを教えるものである。日本の古典に於て、フランス語に於て、言葉は美しかった。さて現代の日本語は如何にして美しくなり得るか。安東次男の次の仕事は、まさにこの点にかかって来よう。 [#地付き](昭和三十七年十月)     串田孫一「北海道の旅」(筑摩書房刊)  私は北海道に足かけ三年ばかり暮したことがある。しかしそれは北海道の一地点に滞在したというだけで他の場所は全然知らない。そこで私は広く北海道の風物や生活を描いた書物には、目がないのである。  串田孫一氏の「北海道の旅」はその点、私の渇をいやすに充分な書物であった。これは題名通りの紀行文には違いないが、北海道案内といった種類のものではない。ここには有名な都会や観光地、温泉場などはあまり出て来ない。如何にも串田氏の人柄を偲ばせるような質素な日常で、殆ど行き当りばったり式に、一種の「憧憬」に導かれてする旅であり、その憧憬はもっぱら人けのない山や海や島や湖に限られている。洞爺湖畔の有珠岳と昭和新山、支笏湖、襟裳岬、十勝岳、ノシャップ岬、礼文島、海馬島、オホーツク海沿岸、斜里岳、屈斜路湖、大沼、——これらが主として串田氏の歩いた場所であり、私なんかには気の遠くなりそうな程の健脚である。しかもこの紀行は、日記と友達への手紙とを交互に混えるという形式で書かれ、その紀行の日数は五月十五日から六月一日までの僅か二週間である。よくまあこれほどまめに歩き、まめに書き留めておいたものだと感心する。  地図と睨み合せて読んで行くと、同じ線路は帰りには通らないような配慮がなされていて、広い北海道の真に「北海道的」な場所のみが巧みに選ばれているのは、これが単に気ままな旅というだけではない証拠である。一方に、ごく初めの方の有珠岳の頂上で、やはり一人歩きをしている少年に出会い、以後はこの見知らぬ山男どうしが行を共にするという偶然が加わる。この一種の小説的な要素が、読物としてのこの書物を更に奥行のあるものにしていることは否めないだろう。海馬島の部分が私には特に印象的に思われ、この北端の島で冬越しをしたいという著者の夢に、私は共感した。この海馬島や礼文島のあたりは全篇中の圧巻である。  もしもほんの少し難をつければ、この紀行文が全体にわたって詳しすぎるという点でもあろうか。串田氏が何もかも説明してくれるので、読者の方が想像力を働かす余地がない。しかし勤勉な串田氏のことゆえ、それが読者へのサーヴィスだと言われれば、これは難といったものでは勿論ないであろう。要するに出不精な私のような者まで、親切に見知らぬ山や湖に案内してくれるすぐれた人間的記録であると、言うべきであろう。  もう一つ望蜀を述べれば、この書物には地図及び三宅修氏の写真が多数挿入されているのは大へん結構だが、その上に、串田氏の変に魅力のある素人っぽいスケッチで飾られていたなら、私がより満足したであろうことは確かである。本の値段ということもあろうから、これは私の我儘なのだが。 [#地付き](昭和三十八年一月)     「萬鐵五郎・小出楢重・古賀春江」(講談社刊)  萬鐵五郎、小出楢重、古賀春江の三人の作品を、一冊の画集に収めるという企画そのものが、まず大層私の気に入った。これら三人はいずれもわが国の洋画の発達史上に、それぞれの足跡を刻んだ画家たちである。ただ彼等の活躍した時代は、萬は大正時代、小出と古賀は大正後期から昭和前期にかけてで、その間に少しずつのずれがあるし、その画風についても驚くほどの違いがある。それでいて、何やら共通したもの、謂わば日本的油絵というか大正的雰囲気というか、私たちが必ずしも懐古的にというのではなしに、情緒に於て親しみやすい何かがある。そこのところを三人並べて見ると、異るものと似通ったものとが一目で見られて有難い。  萬鐵五郎の初期の作品に流れている荒々しい感情は、フランス印象派からフォーヴィスムにかけての油絵の伝統に対して、その素早い日本的解釈と見ることも出来るが、それが次第に技法的に習熟して行くにつれて、まったく独自の境地に出てしまった。つまり彼は日本的油絵というものの一つの型を打ち立てた、そしてそれに成功した、偉大な先覚者の一人と言うことが出来よう。  小出楢重の方はもっと軽妙であり、またより文学的である。気質に於てより現代人である。その作品に通っているか細い神経が、ややもすれば私たちに作品の背後のポエジイを多分に感じさせるが、しかし確固とした造型的な技術が彼の芸術を支えていることは間違いない。  小出は文学的な伝説にやや取り囲まれすぎているようだが、これが古賀春江に至ると、古賀が超現実主義に共感してそういう傾向の絵を描いたために、その文学性は一層強く感じられる。しかし大正から昭和にかけてのモダーン趣味とは別の、彼の内部から本質的に滲み出て来た幻想の美しさを見ることが大切なので、彼を超現実主義の日本版と片づけることは単純すぎるだろう。  つまりこの三人は、フランスのお手本からどのように抜け出すかという点に、彼等の運命を賭けたのであり、それがこの画集に含まれた三人三様の作品を眺めながら、私の胸を切なくする一種の感慨なのである。 [#地付き](昭和三十八年二月)     中村真一郎「戦後文学の回想」(筑摩書房刊)  中村真一郎の「戦後文学の回想」を、私は一種の感慨を以て読んだ。この作品の中では私もまた登場人物の一人であるから、冷静に批評することはとても出来そうにない。つまり私は著者ならびにこの書物にあまりに密接していて、謂わば舞台から演出家の顔も見ているようなところがある。  戦後文学の時代、即ちここに取り上げられている昭和二十六年頃までの時代は、各個人がそれぞれの内面劇を演じていた壮麗な群集劇だった。私はこの回想を読み、如何にその当時、誰でもが(まさに|誰でも《ヽヽヽ》であって、私たちの仲間だけを指すのではない)熱っぽく文学を愛していたかを思い出した。現在の時点に立てば、その熱狂は冷めてしまったように見えるが、しかし戦後文学の理想がまったく消え失せたわけではあるまい。現在のようにジャーナリズムの商法が横行する時代に、私たち(つまり|誰でも《ヽヽヽ》)が初心を思い起すことは大切なことに違いない。そのような勇気を、この書物は与えてくれる。  確かにこれはなるべく客観的に分析した過去の文学現象の記録である。しかし著者はいまだ渦中にいるのだから、この書物の重要性は著者の下した解釈にかかっていると言えるかもしれない。その解釈に、異議のある人もいよう。嘗ての誤解を、これによって解かれた人も、また反って深めた人もいるかもしれない。しかしこの回想を通じて、著者の持つ文学への誠実さはこれを疑うことが出来ない。道は多岐であろうから、人はそれぞれの道を辿って自分の理想へと歩むほかはないのである。  この書物の原型は、「東京新聞」に毎週連載された。今回その各章に、著者は等量以上の補足的文章を附け足した。あとから書かれた部分は一層主観的であり、かつ暗い。その暗さは、或いは著者が円熟したことの証拠かもしれない。しかし一方、それは現在の文学の状態(一般的にも、また彼自身にも)に対する失望の現れであるかもしれない。としたならば、それは危険であり、今こそ情熱をふるい起して文学というものを、或いは戦後文学の中にあった最も本質的なものを、復興しなければならない時期だと言えるだろう。  嘗て在ったものは、戦後文学《ヽヽヽヽ》ではなく、文学《ヽヽ》だった筈である。離合集散のあとに残るものは個人である。この一冊の回想は、中村真一郎の過去の内面劇を明かに示すとは言え、私たちはやはり小説家として彼が内面劇を書くことを期待したい。いまだ回想を書くほどに、私たちは老いていない筈である。 [#地付き](昭和三十八年六月)     辻邦生「廻廊にて」(新潮社刊)  今日のように小説が読み物として氾濫している時代にあっては、新人として登場する小説家は必ずや断乎として新しい何物かを所有していなければならない。初心が既に衰弱していれば、それは既製の文学の模倣にすぎない。自らの信じるところに従って、一人の道を行くことにびくびくするようでは、前途は推して知るべきである。  私は「廻廊にて」の著者辻邦生を、その意味で、当今珍しい新人であると思う。この作品は今までの日本文学になかった種類の思想小説であり、しかもそれは日本的な感受性によって裏打ちされている。一見して、ヨーロッパを舞台に、ヨーロッパ人を描いたこの小説は、単なる翻訳小説かぶれのエクゾチスム的産物と見られるかもしれない。片かな書きの部分を混えた構成は、速読になれた読者にはあまり読みやすい代物ではあるまい。にも拘らず、ここには人間一般の現実が「黒々とした岩群のような感覚の現実」として捉えられ、それは生と死との対話へと、おもむろに読者をいざなうのである。  この小説は、一九二〇年代から一九五〇年代に至る間の時間を辿って、日本人の老画家が、故郷喪失者である閨秀画家マリア・※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]シレウスカヤの内面の記録を、その日記、手紙、友人の証言などによって組み立てるという構成から成る。しかし彼女の魂の形成、従ってまた彼女の芸術の形成に作用するものは、修道院の寄宿学校で彼女の識り合ったアンドレ・ドーヴェルニュの存在であり、この故郷そのものに根を植えつけられている大貴族の少女と、死と貧困と飢とを幼時に体験しているマーシャ(マリア)との対照が、この小説の重要な主題をなす。ロマネスクという点では、アンドレの方がはるかに劇的な存在であり、アンドレの影がマーシャの上に投影することによって、後半生のマーシャの生き方が理解される。従って二人の外国人の女性を主人公とするこの小説は、それが二つの精神を主人公とするものだと考えれば、およそエクゾチスムとは関係のない、現代の形而上学的風景であると言い得るだろう。 「廻廊にて」は作者の外遊による経験に負うところが多いだろうが、しかし外国土産といったものではない。作者は日本人を描いても、必ずや魂の深奥部を抉り出すだろう。私は彼の次の作品に大いに期待するが、それはこの長篇小説には収め切れなかっただけの豊富な内容を、作者が持つことを信じるからである。 [#地付き](昭和三十八年九月)     川端康成「美しさと哀しみと」(中央公論社刊)  川端さんの新作は婦人雑誌に連載されたものだから、恐らく気楽に書かれた小説だろうと思う。しかし意気込んだから傑作であり、気楽に書いたから二流品であるということはない。この作品は、少し終りの方が駈足になっていて、その辺に、もう少し枚数が欲しいような気もするが、「美しさ」と「哀しみ」という二つの主題は、そこに至るまでに充分すぎるほど描き上げられている。  題名が二つの主題を併置するように、内容もおのずから相対的である。京都と北鎌倉、京都では上野音子という女流画家(及びその女弟子の坂見けい子)、北鎌倉では大木年雄という小説家(及びその妻と息子)、そして二人の今は老いた恋人たちを結ぶ現在と過去とが交錯して現れる。殆ど作者の主たる関心は、現在の中に滲んで来るこの過去の哀しみを描くことにあったのではないかと思われるほど、追憶の手法は執拗である。  二人の主人公が共に芸術家であることを、この小説は徹底的に利用しようとしている。小説家は、二十四年前に、十六歳の音子と恋愛をして、別れた後にその一件を「十六七の少女」という小説に書いた。このモデル小説によって、大木は代表作を得、その妻は嫉妬に苦しみ、モデルにされた音子は、独身を通して一人前の日本画家になった。そしてこのモデル小説の中には、妻子のある小説家を愛した少女が、早産の子を死なせたあと、自殺を企てて、一時気が狂ったことまで書いてあったはずである。音子の画題としていつも彼女の心を占めているのは、顔を見たこともない子供を主題にする「嬰児昇天」であり、母の肖像や女弟子の肖像を書こうとする気持の根底にあるものは、結局は昔の恋人に寄せる愛であろう。  二十数年の歳月が流れて、その間二人が会うことがなかったとしても、「十六七の少女」の記憶は、大木にも、音子にも、常によどみなく流れている。そしてこの小説は、京都に除夜の鐘を聞きに行った大木が、二十数年ぶりに音子に会うところから始まっている。  しかし小説は、回想の場面をのぞけば、この二人の間で進行することはない。京都と北鎌倉とが別であるように、二人の恋人たちは別々に描かれ、殆ど過去の中に埋没して住んでいるように見える。その代り舞台の正面に現れるのは、一種の奇妙な性格を持った女弟子のけい子であり、彼女は先生の代りに復讐すると称して、大木をも、その息子の太一郎をも、誘惑する。彼女がどのように美しく、どのように手管を尽して二人を誘惑するかという点から見れば、この小説には悖徳の匂が濃い。  しかし「美しさ」というものが人を惑わせるものである以上は、現実離れのした美しさを描くためには、このような人物のこのような行為も、小説として当然必要になって来る。況や小説の主眼が、そうした妖精のような若い女を通して、古風な京都の町のたたずまいを思わせるような昔の恋の名残りを、今は離れてしまった恋人たちの持つ回想の美しさを、描くことにあったとすれば、問題はない筈である。  川端さんの小説は、常に美を主題にしている。この小説でも、結局は「哀しみ」を含む「美しさ」を描くものであろう。従ってその美が、頽廃的な形をとるのは極めて自然なことである。作者のモチイフが、一見して女弟子のけい子を活躍させることにあり、読者にその生態を観察させることによって興味を惹きつけようとの狙いを持っていたとしても、私たちがこの小説で感銘を覚えるのは、寧ろ音子の生きかた、その生活、その芸術観の方であり、作者もまたそれを承知の上で、対照としてけい子を用いたのではないかと推量される。その場合、「美しさ」はけい子、「哀しみ」は音子、というふうに図式づけられるかもしれない。  大木と音子との二人に関するかぎり、小説的発展ということが過去の場面以外に求められなかった以上、この小説が後半に至って、けい子と太一郎との交渉に傾いてしまったのも、致しかたのないことである。それでも私は、作者が終りの方をもう少し加筆されるか、いっそもう少し短くされたら如何なものかと考えた。これは無責任な一読者の感想で、作品の価値がそのために一毫と雖も減ずるものでないことは勿論である。 [#地付き](昭和四十年四月)     安東次男「芸術の表情」(未来社刊)  これは安東次男がその時々の書肆の需《もと》めに応じて書いた美術批評を、図版入りで収めた豪華本である。内容は多岐にわたっていて、シャガール、ゴッホ、ゴーギャン、ダリ、ルドン、ミロ、モンドリアンなどのフランス近代及び現代の画家の本質、ロマン主義末葉のブレダンとメリオンの銅版画、中国明清美術展の印象、鐵斎、華岳、須田國太郎、福田平八郎、坂本繁二郎、オノサト・トシノブ、児島善三郎、岡田謙三などの日本画家の色彩感、それから小さな骨董品の鑑賞、そういった長短さまざまのエッセイを収めている。  その全体を通じて、安東の詩人らしい感受性は随所に迸り出ているが、彼が自らあとがきにしるすように、必ずしもすべて彼の好みにあった芸術家が選ばれているわけではない。作者はそのことが、反って芸術家たちの素顔を示す一つの効果を持ち得たのではないかと自負している。なるほど彼は「需めに応じて」書く場合にも「気ままに」書いたには違いないが、しかしその場合に彼が自分の発見を、或いは彼流の論理を、愉しむために無理をしたという場合もあり得るだろう。  モンドリアンよりはルドンの方が面白く、ゴッホとゴーギャンよりはブレダンとメリオンの方が面白く読めるというのは、やはり作者が、彼の好みにあった画家を書くことに、より情熱を感じたからに他なるまい。  我々がこの書物で学ぶのは、美術に於けるさまざまの「表情」を、安東という個性の強い芸術家がどのように見ているかという点であり、それは結局、安東の表情を文章の背後に見るということでもある。その点では、肩を怒らせた論文よりは、彼が気軽に、それこそ「気ままに」つづった、鐸《たく》や、壺《つぼ》や、水滴や、化石などの鑑賞的小品「見落とされた美」の方が、遥かに彼自身の最も良質の部分を伝えているように私は思う。  しかし彼の学識と炯眼とを示す多くの論文が、切迫した苦しげな表現を湛えているとしても、我々が現在持っている芸術が最早切迫した苦しげなものでしかないとすれば、それは当然のことで私がとやかく言う筋ではない。 [#地付き](昭和四十年七月)     粟津則雄「ルドン」(美術出版社刊)  オディロン・ルドンという画家の一枚の複製は、それが白と黒とで出来た石版画であろうと、また原色のパステル画であろうと、それを眺める人を無限の想像力に駆り立てる何物かがある。そして一枚のルドンから多くのものを想像し得る人は、この七十六歳の生涯を生きた画家の生活に関しても、やはり想像力を恣《ほしいまま》にして、如何なる誘因が彼をこのような神秘的な世界に、——謂わば生の根源とでもいった世界に、導いたかを知りたいと思うに違いない。  私はルドンを愛していたから、かつて「芸術の慰め」というエッセイの一章としてルドンを取り上げた。しかしルドンに関するモノグラフィは意外なほど少く、ルドン自身の書いたものも多くは手に入らなかった。そこで私は少しばかりの材料でごく荒いデッサンを書いたにとどまった。従ってこの画家に対する私の好奇心は満されないままに残った。  ルドンは特殊な画家で、一般的に言って人気が高いとは言えないのではないだろうか。私の知る限り、ルドンに関心を持っていることを表明したのは、岡鹿之助、片山敏彦、瀧口修造、安東次男の諸氏ぐらいのものではなかったろうか。そして今、漸くにして、われわれは粟津則雄の手になる一冊のすぐれたモノグラフィを持つことになった。ルドンの名を普及させるためにあまりに遅かったとも言えるが、しかし著者にその人を得たという点では遅すぎるということはない。  これは主としてルドン自身の書いた「私記」と「書簡」とを軸にして、画家の生活、それも内的生活のあとを辿った伝記である。精神の形成という意味で、この書物が画家の生れ育った環境、即ちその少年期から青年期にかけて詳しいのは当然と言わなければならない。ルドンの生活には格別の波瀾もない。劇はすべて内面で行われる。作者はそれをルドン自身の言葉や同時代の証人の言葉を援用しながら丹念に分析する。われわれの想像力は少しずつ満足させられる。如何にしてルドンは、ルドン以外の何者にも成り得なかったか、如何にして彼は彼に到達したか、その秘密をわれわれはこの書物で教えられる。「考える人は闇を好む」というルドンの言葉は、彼の内面の劇がどのように深い因子を孕んで動いていたかを推量せしめる。その「黒」の幻想がやがて「色彩」の神話に置き換えられる時に、劇は最高潮に達する。そしてこの生涯を読み終えた時に、読者に残るものは以前とは違った新しい謎、創作というものの持つ本質的な謎であろう。 [#地付き](昭和四十一年七月)     吉田秀和「現代の演奏」(新潮社刊)  吉田秀和さんの「現代の演奏」という本を、私は初めから期待を持って読み始めたわけではない。つまり私のような素人が、演奏の巧拙などを比較論評するのを聞いたところで、馬の耳に念仏だろうと思っていた。吉田さんはあまりにも専門家にすぎて、例えば私のような者に向って、あの第三楽章にはドミナントが全然使ってないんですよ、などと真面目に言う人である。それは何も私を煙に巻くために、知識の一端を披露したというのでは決してない。恐れ入ったのは当方の勝手である。  そういう玄人の書いた演奏論が、まったくの素人である私に、巻を措く能わずという程面白かったのは何故であるか。これはお世辞でも何でもない。その理由は色々あろうが、まず名人上手の芸談とか、もしくは他人によるその芸の品評とかいうものは、本質的に興味深い性質のものである。その芸がこちらと関係がなく、例えば文楽の三味線弾きとか彫金の名人とかであるとしても。従ってこれが西洋音楽の演奏家となれば、素人にも多少の予備知識があるから、岡目八目的な面白さを生じる。ギーゼキングとグレン・グールドとリヒテルとホロヴィッツとを比較するとなれば、そこに如何なる名人芸の相違があるか、読者を納得させるように説明することは容易ではあるまい。しかし吉田さんは客観的に分析して、我々になるほどと言わせてしまう。そしてその上で、演奏は何のためにあるか、心に残る演奏とは何であるかを語り掛ける。そこまで行くと、最早単なる客観的分析と言ったものではなくなり、問題は音楽そのものということになる。  演奏はつまり音楽の一形式であり、楽譜を読んだだけで音楽を味わうことの出来る人もいよう。しかし演奏という表現によってのみ、多くの素人は音楽を愉しむのであり、しばしば演奏を語ることで音楽をそっちのけにしてしまう玄人の批評家に対して、私などは不信の念を持つ。吉田さんはそうではない。この本はいつでも、演奏を通じて音楽の中心問題、芸術とその表現の問題にまっしぐらにはいりこむ。ということは、結局、吉田さんの文体が緩急自在で、役者評判記のように見せかけて読者を面白がらせているうちに、忽ち吉田さんの信条告白となるからであろう。その最も巧妙な例は、シフラを論じたところであろう。吉田さんはシフラを通じてリストを語り、ついでに音楽の運命についても語るのである。しかも実に滑稽に。 [#地付き](昭和四十二年六月)     中村真一郎「私の百章 回想と意見」(桂書房刊)  中村真一郎が折に触れて書いた随筆小品の類が、かっきり百ほどはいっている。それが十章に区分され、それぞれ十篇ずつある。それによってこの著者がいかに古典的均整を重んじているかが分るだろう。そしてこの十章は、「回想と意見」という副題が示すように、昔話もあれば紀行文もある、人物記もあれば文学観もある、映画批評もあれば身辺雑記もあるといった具合に、およそ千差万別である。しかもそれが時間的な配列ではなく、主題別に並べられているから、およそ端倪《たんげい》すべからざる著者の容貌が、時々若返りながら展開するわけである。そこではこの人物が、必ずしも古典的なばかりではなく、浪漫的でもあれば神経質でもあるし、更に、よりつきがたい気むずかしい顔をしているように見えて、その実、茶目けもあれば思いやりもあることが分る。人を泣かせたことがないなどと言っていながら、巻末に近く集められた故人を偲ぶ文章などを読むと、惻々《そくそく》として泣かされる。気軽に書いたようでいて、すべて達意の文章で、どの一篇にも著者の人柄が滲み出ている。  中村真一郎は文学に凝りかたまった雲上人《うんじようびと》のごとく思われているようだが、ごく普通の生活人の面があることを忘れられては困る。なるほど文学が好きで、読書家としても一流、小説評論なにを書かせてもうまい。しかしその人から文学を取り去ったら何も残らないというような、無味乾燥な人間ではない。中村真一郎はこの本のなかで、私のことを幼な友達と呼んでいるが、まさかそれほどではないとしても、とにかく中学以来の附合だから、彼の外側も内側も大抵のことは分っている。よく識れば識るほど、やさしくて親切な男なのだ。そういう彼の内側をうかがうために、この本ほど参考になるものはないというのが、中村真一郎についての私の「回想と意見」である。 [#地付き](昭和四十三年三月)     「ボナール画集」(美術出版社刊)  ピエル・ボナールは私の好きな画家の一人で、先頃西洋美術館で催された生誕百年記念のボナール展は私をほくほくさせた。あれだけの量の作品を一度に見られるというのは眼福そのものである。会場で顔を合せた私の友人の批評家が、大したことはないといってけちをつけていたが、つけたければつけても宜しい。ボナールの絵を愉しむことが出来ないのはその人の不幸、気の毒である。  ボナールの生涯はごく平凡なものだったらしいが、作品も生涯と同じで、平凡と言えば言えるようなものである。選ばれた題材も身辺の日常生活とか、都会や田舎の風景とかばかりで、びっくりするような材料は一つもない。構図の取りかたには随分と奇抜なものもあるが、形も色も穏かな調和を示している。ところがどの一点を取ってみても、これを平凡だと片づけられるようなものはない。そこには独特の雰囲気があり、見る人を惹き込んで離さない何かがある。その魅力がどこから来るのか、考えてみれば当然ボナールの画家としてのメチエの産物だと分っていても、さてそれが分析しにくい代物である。ボナールはその意味で、最も論ずることの至難な芸術家である。嫌いな人には何も書けないだろう。しかし好きだとなってもやはり書きにくい。というのはまずわれわれを酔わせてしまうし、酔心地を分析することはこれまた難しいからである。  美術出版社から出された画集「ボナール」は、このボナール展の全作品のカタログであると共に、光村印刷による原色版が実にたくさんはいっている。その印刷が見事に出来ているから、展覧会での印象が頁を繰るごとに鮮かに甦って来る。展覧会に行きそこなった人のためには、これはボナールの全貌を示すに足りる、よく選択された画集ということになろう。加えるにアントワーヌ・テラスと中山公男の解説が、お座なりでなくて、論じにくいボナールをよく論じてある。  私はボナールを芳醇な葡萄酒に譬えたい。それは人に悪酔を強いることがなく、爽かで心地よい後味を残すだろう。この一冊の画集は、せわしない時間の足をとどめさせる幸福の美酒である。 [#地付き](昭和四十三年七月)     加藤周一「羊の歌」(岩波書店刊)  或る時、加藤周一が自伝を書こうと思うと私に語った。やれやれ君もそんなものを書く歳になったのか、と私はひやかし、どういうポイントで書くのだと尋ねたら、平均的日本人を書くのだと答えた。平均的日本人と加藤周一とでは、イメージがまるで重なり合わないから説明を求めると、彼はこういうふうに述べた。  多くの日本人と同じく、君も僕も、政治では右でも左でもなく、宗教では神道も仏教もキリスト教も信ぜず(しかしいずれにも関心があり)、行動には理性を重んじ、判断は相対的であり、実人生を楽しむように芸術を楽しみ、目は世界に開かれ、心は日本を愛し、——この上まだたくさんのことを言って、そのうちに笑い出して君はどうも平均的ではないかもしれない、君は芸術家だからとお世辞を言った。そこで私の方はもっと大きな声で笑い、もし君が自分を平均的日本人だと思っているのなら、それはとんでもない間違い、君は特別製のインテリだから、その点を自覚して自伝を書かない限りポイントが狂うよ、と忠告した。  世界を股にかけ、日英独仏の四国語を日常に使い、政治、思想、文学、芸術の各分野にわたって鋭い批評眼をそなえた男が、平均的ということはあるまい。 「羊の歌」は「わが回想」という副題を持ち、加藤周一による一九四五年敗戦の年までの自伝である。このあとに「続羊の歌」が刊行されることになっている。さてこれを読むと、加藤周一という決して平均的でない一個性が、どのような環境に育ち、どのような感覚をみがき、どのような他者および自己による教育を経て、現在に至ったかが明かに分る。彼の持つ観察力と分析力(また記憶力というものもあろう)が、必要にして充分な描写と説明とによって、幼年期と少年期、そして青年期に及ぶまでの間の、その人間像を刻みあげる。祖父、父、母、妹、という肉親たちも、どの一人も決して平均的ではないし、その強い個性が彼の上に投影している。時代の方は平均した力を彼の上に投げかけたが、彼は決して流れに押し流されることはなかった。私は彼の身近にいた一人の友人として、殆ど巻を措く能わずという興味に促されて一読したが、一般の読者諸氏に対しても、この一冊は強烈な印象を与える筈である。 [#地付き](昭和四十三年九月)     中村真一郎「金の魚」(河出書房刊)  小説というものが、何をどのように書いてもいいものだという鴎外の前提に立てば、この「金の魚」は紛れもなく良く出来た小説である。「私」という一人の小説家が、仕事のために泊り込んでいるホテルを出た瞬間に、すんででトラックに轢かれそうになる。そのことに触発されて、さまざまの意識が、遠く或いは近い記憶のイメージを伴いながら、主人公をその夜じゅう追いまわし、翌日の午前に至る。そして彼は或る決意に到達する。  しかしまた一方、この作品は五十歳前後の一人の男の思考の内容を、極めて微細に分析した、一種の人生観の告白といった趣きをも持っていて、読者の興味は寧ろその方に、つまりこの主人公の独特の論理癖の方に、向けられる。人間の内部には、明かな形を採る以前の、未分化のマグマの状態があると言ったのはナタリー・サロートだが、この作者も、睡眠と覚醒との中間にあるような意識を捉えて、それを追究し、表現しようとつとめる。例えば意識に三層があり、日常的に我々は第二層に属しているが、それが第一層に抜け出すと時間的秩序を脱して幸福感にひたり、第三層の無意識界に落ち込むと、孤独の闇の中で恐怖と不快を感じる、といったふうに。このような解釈が、「私」の過去及び現在のさまざまの事件を、明快に論理づけることを可能にする。そして意識の底を探った結果、主人公が彼の書くべき新しい「作品」を、彼が目にした幻の金の魚のように、夢想するところで、この長い独白は終りを告げている。  とすれば、これはプルースト風の、一人の小説家が彼の全人間的な作品を書くという小説の、プログラムを示したものなのだろうか。プルーストの主人公は長い小説の最後にそのことに気がつく。「金の魚」の主人公は早くもそのことに気がついた。では結論が初めにあって、そこから大河小説が始まるのか、それとも「金の魚」はこれだけで完結した小説なのか、そこのところが私にはよく分らなかった。 [#地付き](昭和四十三年十二月)     内田百「残夢三昧」(三笠書房刊)  書評というものはそもそも何のためにあるのか。理窟はとにかく、私にとって書評は褒めるためにある。僅ばかりの枚数で悪口を言うのは食い逃げのようなもので、それなら初めから厭だと言って引き受けなければいい。  そこで内田百先生の新著「残夢三昧」の書評を二つ返事で引き受けた以上、初めから私が手ぐすねひいて褒める気でいるのは言わずもがなのこと。褒めるのにも色々あって、利害や縁故や義理人情でつながる場合は感心しないが、私は幸か不幸か百さんとは赤の他人で、褒めなければならぬ義理合はいささかもない。物を書く身の後輩として、この長老の気骨も好き、生きかたも好き、文章も好き、要するに嫌いな点が見当らないのだから世話はない。一度でいいから御前に祗候して拝顔の栄に浴したいものとかねがね望んでいるが、百さんは一日一昼夜のうち二十時間ぐらいはうつらうつらと眠るのが趣味というか生活というか、とにかくめったに知らぬ他人に会うような世間並のおかたではない。私はそれほどの変人ではないが、せめて十時間はこれでも寝ていたい方だから、百さんのような暮しかたは謂わば私の理想である。人に押し掛けられるのは私も厭だ。そこで私は百さんの書かれたものを端から読むだけで我慢し、お会いしないでも会ったにひとしい気持になる。憚りながら百さんのことなら大抵のことは知っている。  随筆というのは御本人の身辺にわたるのが建前だから、亭主を二十時間も寝かしつけておくような奥さんは余程の女豪傑かと思うが、不思議に百さんの文章にはあまり登場されない。今度の随筆で、アビシニ国女王陛下と称せられることを知り、命名の謂れを忖度してにやにやするところがあった。新著が出るたびに、私のような読者は新発見をよろこぶ。  百さんの随筆集はたくさんあるから、同じ話を二度聞かされることもある。しかし上手な咄家《はなしか》なら同じ話は何度聞いても面白い。況や百さんの場合はその度ごとに文章の綾が違っていて、そこに何とも言えない味がある。とにかく私の下手な褒め言葉を聞くよりも、百聞は一見に如かず百は一読に如かず、読者よさっそく一本を購いたまえ。 [#地付き](昭和四十四年十二月)     埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」(河出書房刊)  人間の精神のためにはさまざまの技術があって、例えば速読術に長けている人もいれば記憶術の大家もいる。とすれば夢を見る術に巧みな人もいる筈である。夢というのは五臓六腑の疲れなどと言うようにとかく受身のものと思われがちだが、訓練次第では意志的に夢を見ることも出来ない筈はない。獏《ばく》という怪獣は人間の夢を食ってくれるそうだが、人間も自分で夢を製造したり、厭になったら食ってしまったり出来れば、これほど面白いことはない。たかが夢一つ、思うように見れなくては万物の霊長でもあるまい。ところが実はそんなことはまず不可能なのである。  もし夢がただ愉しい夢、美しい夢でさえあればいいのなら、人工的な夢製造業者はたくさんいて、現代はそのような安易な娯楽に充ち満ちているとも言える。しかるに意志的に見ようとする夢は、必ずしも愉しく美しいとは限らない。夢というこの不思議な現象を追求することで、人間の存在それ自体の中に最も根源的に含まれている意識を映像化す場合に、その夢は恐怖そのもの、謎そのもの、暗黒そのものであるかもしれない。そういうことを百も承知の上で、わざわざ恐ろしい夢を見ようとする人、それが埴谷雄高である。  埴谷さんの新しい作品「闇のなかの黒い馬」は九篇の短篇から成り立っているが、それは連作短篇集というより、一つの主題から放射された九本の光の矢を束ねたもので、もし光と闇とを写真のように反転させることが出来るとすれば、九本の闇の矢と言った方がより正確なのだが、それらの闇の総和としての一つの作品なのである。従ってこれは単なる夢の記録を集めたようなものではない。どのような夢を作者が欲し、そのためにどのような仕掛が必要であるかを説明し、その結果として見られた夢が作者の精神とどのような関り合いを持っているかを述べたものである。  埴谷さんにとって、夢は闇の果てへ行くための唯一の手段である。そしてこの闇というのは即ち宇宙であり、即ち自己である。夢の文字を解読することによって、「ヴィーナスの帯」の彼方へまで飛翔したり、のっぺらぼうの「神の白い顔」を見たりするが、手段である夢がいつのまにか結果そのものになって行く過程が面白い。しかしこの作品は哲学的エッセイではなく小説なのだから、その点では必要な夢を見るための仕掛のところが、ちょっと余人の真似の出来ない芸になっている。例えば「追跡の魔」の章では、夢が覚めることなく見つづけることが出来るならば、その夢は無限に続いて宇宙の果てへまで漂泊する筈である。そこで「私」は寝室を厳重に目張りして一つの密封した箱と化し、その真暗な部屋のなかで寝つく時に、上半身を子供用の幌蚊屋のなかへさしこんでおく。そうすれば恐怖に怯えて目覚める時に、そこは「微光もささぬ絶対暗黒の場所」であるばかりか、「そこに何かが存在していながらも、なんらの拘束感をともなわぬ自然で自由な状態」になり得る筈である。  このような小道具の一つでうまく出来ているのは、十六ミリ映写機によって、水泳の高飛込みの実況フィルムを繰返し写して見るという、「自在圏」の一章である。但しフィルムは逆廻しで写される。水泳選手は「盛りあがった白い花のような水煙が素早い不思議な収縮運動を示して不意とおさまった水面からさながら他の世界の長い棒状の生物のごとくに逆さまに飛びだしてくるかと思うと、その逆立ちしたままの姿勢で、忽ち、高い飛込台へすっくと立ち戻るのであった。」この非日常的な運動は、無限落下の夢を憧れる作者の夢想を刺戟し、それによって「何処かにある暗い凹みの向う側」へ飛び出すことを可能ならしめる。その結果、「私」は自らの意志で無限の空間を落下し、「暗い凹み」に映っている「球人」としての自分を発見するのである。前半のフィルムの描写が詳しければ詳しいほど、読者の方は次第に裏返しにされた現実の方へと連れ込まれ、あれよあれよという間に読者自身もまた暗い凹みの内部を浮游しつつ、球人になってしまったように感じる。その辺のところが埴谷さんの文章の魅力で、謂わば詩的論理によって貫かれているから、落下しはじめたらもう一緒に落ちて行くほかはない。 「夢のかたち」の章もまた特徴のあるもので、もしも夢が「白昼の外界の記憶のかたち」を含んでいるのなら、それを無理やりに内部の視界から消してしまえば、あとには白昼の世界とは関係のない「漠とした神の自己凝視に似ている」ところの、「ひたすら闇の内部に内発するもの」が現前する筈だ、という前提から出発する。そこで「私」は暗闇を眺め続けて、疲労のあまり生れながらの全盲者の自覚とともに眠り込む。しかしその場合、音までも遮断することは出来ない。そこで遂に「私」は、「ヘレン・ケラーの夢」と名づけた一切の外界を消去した夢を見るために、耳につめものをし、ヘレン・ケラーは私だという呪文を称え、かくて「三重無の夢」を見ることに成功する。この夢は無気味であるとともにグロテスクで、ちょっと黒いユーモアの好例ではないかと思われる程だ。  例をあげていればきりがないが、埴谷さんの作品の主題は、要するに人間の存在を意識の点から微視的に捉えようとすることにあろう。微視と言っても、それは一原子が宇宙全体を含むという意味での微視である。また埴谷さんの好みである「闇」によって、闇自体の発する光をまで捉えることにも、試みがあるだろう。しかし私はここに、物を書くという行為が、埴谷的暗黒を徐々に眼に見えるものに移し変えて行く、近頃はやりの言葉を使えばエクリチュールに、最も感心した。マラルメは白紙の上に書くという主題を繰返し歌ったが、埴谷さんは闇の上に書く。白紙も闇も遂には同じものに違いないが、不可能と格闘する腕力は、埴谷さんも実にしたたかなものがある。私もまた夢に関心があるから、この書物を初め夢を主題にしたものだろうぐらいに考えていたが、とんでもない間違いだと気がついた。大事なことは夢ではなく、夢によって何処に行くかである。マラルメは夢によって虚無に達した。埴谷雄高は夢によって存在に達した、と言いたいが彼の到達する点はもっと先の方にあるだろう。黒馬のしっぽにつかまって我々が何処に連れて行かれるのかは我々には分らない。しかし私は埴谷さんが、黒馬のしっぽを金輪際離さない人だということを知っている。従ってこの作品は、埴谷さんのそのようなクレドの書だとも言えると思う。 [#地付き](昭和四十五年七月)  [#改ページ]   掲載紙誌一覧 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]   ㈵ 夏の悲しみ 「図書」昭和四十三年八月号 川端康成氏のノーベル賞受賞 「毎日新聞」昭和四十三年十月十八日附夕刊原題「川端康成氏の文学」 「雪国」読後 昭和四十四年毎日新聞社主催川端康成展カタログ「川端康成—その人と芸術」(昭和四十四年四月二十七日)毎日新聞社発行 江戸川乱歩の思い出 講談社版江戸川乱歩全集第三巻解説昭和四十四年六月刊原題「乱歩の作品、乱歩さんの思い出」 中村真一郎とカツ丼 河出書房新社版中村真一郎長編小説全集第一巻月報昭和四十五年三月刊 フロイトと私 人文書院版フロイト著作集第三巻月報昭和四十四年十二月刊 手紙について みすず書房版ファン・ゴッホ書簡全集第三巻月報昭和四十五年二月刊 渡辺一夫先生の一面 筑摩書房版渡辺一夫著作集第一巻月報昭和四十五年六月刊 私の揺籃 新潮社版新潮日本文学福永武彦集月報昭和四十五年八月刊 ロートレアモン周辺 「ユリイカ」昭和四十六年九月号 鴎外のルビ 「新潮」昭和四十六年十一月号 古代人の想像力 「文学」昭和四十六年十一月号 鴎外全集 「図書」昭和四十六年十一月鴎外特集号 プルースト百年祭「朝日新聞」昭和四十六年十一月九日附夕刊 マチネの亡霊 「群像」昭和四十七年一月号 学者の幸福 大修館書店版鈴木信太郎全集第四巻月報昭和四十八年十二月刊 等身大 講談社版内田百全集第十巻月報昭和四十八年四月刊 モリエールの訳者 中央公論社版モリエール全集第二巻月報昭和四十八年五月刊 源氏物語と小説家 新潮社版円地文子訳源氏物語巻十月報昭和四十八年六月刊 川端康成の文芸時評 新潮社版川端康成全集第十九巻月報昭和四十九年三月刊   ㈼ 梅崎春生 新潮社版梅崎春生全集内容見本昭和四十一年十月発行 夢野久作頌 三一書房版夢野久作全集内容見本昭和四十四年六月発行 惜命 角川書店版石田波郷全集内容見本昭和四十五年十一月発行 荷風の道 岩波書店版永井荷風全集内容見本昭和四十五年十二月発行 或る友情の形見 みすず書房版ジイド、マルタン・デュ・ガール往復書簡内容見本昭和四十六年五月発行 我が立原 角川書店版立原道造全集内容見本昭和四十六年六月発行 内田百 講談社版内田百全集内容見本昭和四十六年十月発行 詩人哲学者 みすず書房版片山敏彦著作集内容見本昭和四十六年十月発行 詩の愉しみ「毎日新聞」昭和四十八年九月十日附朝刊新潮文庫広告 鏡花の美 岩波書店版泉鏡花全集内容見本昭和四十八年十月発行   ㈽ 花田清輝「復興期の精神」 「北海文学」昭和二十二年六月創刊号 ボーヴォワール「招かれた女」(川口篤、笹森猛正訳) 「創元」昭和二十七年八月号 「アポリネール詩集」(堀口大學訳) 「図書新聞」昭和二十八年五月十六日号 ジュリアン・グリーン「真夜中」(河合亨訳) 「産業経済新聞」昭和二十八年十月五日附朝刊 「リルケ書簡集」(「孤独と友情の書」富士川英郎、原田義人訳・「師に寄せる手紙」佐々木斐夫、長谷川四郎訳) 「図書新聞」昭和二十九年一月九日号 河上徹太郎「私の詩と真実」 「日本読書新聞」昭和二十九年二月二十二日号 モーリヤック「ガリガイ」(新庄嘉章訳) 「図書新聞」昭和二十九年四月十日号 三島由紀夫「潮騒」 「図書新聞」昭和二十九年七月三日号 ジュリアン・グリーン「四角関係」(佐分純一訳) 「日本読書新聞」昭和二十九年十一月一日号 中村真一郎「冷たい天使」 「群像」昭和三十年四月号 石川淳「虹」 「日本読書新聞」昭和三十年三月十四日号 曾野綾子「遠来の客たち」 「図書新聞」昭和三十年四月二十三日号 室生犀星「随筆女ひと」 「図書新聞」昭和三十年十一月二十六日号 加藤周一「ある旅行者の思想」 「読売新聞」昭和三十年十二月三十一日附朝刊 ヴァルジンスキー「死者の国へ」(菊盛秀夫訳) 「日本読書新聞」昭和三十一年一月二十三日号 グラック「アルゴオルの城」(青柳瑞穂訳) 共同通信経由「山陽新聞」昭和三十一年五月一日附その他 桂芳久「海鳴りの遠くより」 「群像」昭和三十一年七月号 室生犀星「誰が屋根の下」 「東京新聞」昭和三十一年十一月七日附夕刊 「定本蒲原有明全詩集」 「日本読書新聞」昭和三十二年三月二十五日号 梅崎春生「つむじ風」 「東京新聞」昭和三十二年四月三日附夕刊 「ロートレアモン全集」(栗田勇訳) 「日本読書新聞」昭和三十二年六月十日号 神西清「灰色の眼の女」 「図書新聞」昭和三十二年八月十七日号 石川淳「諸国畸人伝」 「日本読書新聞」昭和三十二年十一月二十五日号 室生犀星「杏っ子」 「図書新聞」昭和三十二年十一月十六日号 井上靖「天平の甍」 「東京新聞」昭和三十二年十二月二十三日附夕刊 松本清張「眼の壁」 共同通信経由昭和三十三年以下不詳 伊藤信吉「高村光太郎 その詩と生涯」 「産経時事新聞」昭和三十三年六月三日附朝刊 矢内原伊作「芸術家との対話」 「読売新聞」昭和三十三年七月二十三日附夕刊 サド「悲惨物語」(澁澤龍彦訳) 「日本読書新聞」昭和三十三年十二月一日号 室生犀星「我が愛する詩人の伝記」・濱谷浩写真集「詩のふるさと」 「図書新聞」昭和三十四年一月十日号 瀧口修造「幻想画家論」 「日本読書新聞」昭和三十四年二月二十三日号 石川淳「霊薬十二神丹」 「東京新聞」昭和三十四年六月八日附夕刊 佐藤春夫「日本の風景」・井上靖「旅路」 「東京新聞」昭和三十四年八月十七日附夕刊 森有正「流れのほとりにて パリの書簡」 「週刊読書人」昭和三十四年九月七日号 室生犀星「かげろふの日記遺文」 「図書新聞」昭和三十四年十二月五日号 谷崎潤一郎「夢の浮橋」 「東京新聞」昭和三十五年三月八日附夕刊 白井浩司「小説の変貌」 共同通信経由「岐阜日日新聞」昭和三十五年五月二十四日附その他 「芥川龍之介遺墨」 「東京新聞」昭和三十五年四月二十日附夕刊 室生犀星「黄金の針」共同通信経由「新潟日報」昭和三十六年五月三日附その他 「ゴーガン」 「図書新聞」昭和三十六年五月二十日号 寺田透「作家論集・理智と情念・下」 「週刊読書人」昭和三十六年六月五日号 「ポポル・ヴフ」(レシーノス校注、林屋永吉訳) 「東京新聞」昭和三十六年八月二日附夕刊 フランクフォート「古代オリエント文明の誕生」(智田淑子、森岡好子訳) 「東京新聞」昭和三十七年三月七日附夕刊 フェリックス・クレー「パウル・クレー」(矢内原伊作、土肥美夫訳) 「東京新聞」昭和三十七年六月六日附夕刊 安東次男「澱河歌の周辺」 「東京新聞」昭和三十七年十月二十四日附夕刊 串田孫一「北海道の旅」 「週刊読書人」昭和三十八年一月二十八日号 「萬鐵五郎・小出楢重・古賀春江」(日本近代絵画全集第九巻) 「週刊読書人」昭和三十八年三月四日号 中村真一郎「戦後文学の回想」 「週刊読書人」昭和三十八年六月二十四日号 辻邦生「廻廊にて」 「東京新聞」昭和三十八年九月十一日附夕刊 川端康成「美しさと哀しみと」 「朝日ジャーナル」昭和四十年四月二十五日号 安東次男「芸術の表情」 「東京新聞」昭和四十年八月四日附夕刊 粟津則雄「ルドン」 「美術手帖」昭和四十一年九月号 吉田秀和「現代の演奏」 「波」第三号(昭和四十二年七月) 中村真一郎「私の百章 回想と意見」 「週刊読書人」昭和四十三年四月八日号 「ボナール 生誕百年展記念画集」 「週刊読書人」昭和四十三年八月五日号 加藤周一「羊の歌」 「日本経済新聞」昭和四十三年九月二日附朝刊 中村真一郎「金の魚」 「サンケイ新聞」昭和四十四年一月九日附朝刊 内田百「残夢三昧」 「今週の日本」昭和四十四年十二月二十一日号 埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」 「展望」昭和四十五年九月号 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   後記  これが私の五冊目の随筆集である。この前の「夢のように」と対をなすべきもので、その本の後記の中に既にこの「書物の心」という題名を予告しておいた。「夢のように」は去年八月の刊行で、こちらの方は年が明けたらすぐにも出してもらうつもりで夏休みに切抜の整理などをしていたが、その刊行が意外に延びたのには少々芳しくない理由がある。前著の「夢のように」がやたらに病気をした話ばかりで、後記の中でまでぼやいていたのが讖《しん》をなしたものか、旧臘たちまち具合が悪くなって今年の春先まで虫の息で過した。と言っても私のように前科数犯を重ねていると、今度のは比較的軽かったなどと口先だけは元気にしているが、昔と較べて回復に手間取り、頭の方もまるで冴えない。そこで校正を見るに当っても、何しろ寝ながらのことなので遅々として進まず、結局はこのように遷延してしまった。読者諸氏の寛容を得たいものだ。  ところでこの「書物の心」は、前の「夢のように」から零れ落ちた文学関係の随筆を集めている。要するに前著を編輯する際に余った部分で、文学関係と言ってもエッセイと呼べるようなものは一つもない。どれも気楽に書いた随筆ばかりで、多少情ないような気がしないでもないがこれも気力衰えたことの証拠かもしれない。文学についての随筆が、この七年間にこれだけしかないのでは不勉強の謗《そしり》を免れないだろう。  従って分量が尠すぎて到底一冊の本にならないので、更に第二部として気に入った推薦文の類を集めた。推薦文というのはいずれもあまりに短いが、作者の苦心は文の長短には関らないし、想いもまた短いからと言って浅いわけではない。  第三部もまた紙数が足りないための苦肉の策だが、この方は私が今までに書いた書評の中の殆ど大部分を集めてある。一番古いのは戦後間もなく私が北海道帯広にいて「北海文学」という薄っぺらな雑誌を出した時に、その創刊号に書いた「復興期の精神」の書評である。私は花田清輝とは「群像」の合評会で顔を合せたことがある程度の仲でしかなかったが、その存在はこの初めての書評に彼の本を選んだ時から常に私の念頭を去らなかった。彼が亡くなった時に、愛惜の念もまた深かった。書評というのは編輯者の指命によるまったくの偶然にすぎないが、一度書評の筆を執ったことによって、その本の著者との間に微妙な絆を生じるもののようである。そして年代順に並べられたこれらの書評の中には、よし編輯者の指命によるとは言え、やはり私の好みが自《おのずか》ら出ているだろうし、例えば室生犀星や石川淳の作品がしばしば登場することにもなるが、反対に私が書きたくてならなかったのにその機を得なかったという場合も、幾つか思い出すことが出来る。書評はめぐり合せで、人と人との出会のように儚い。  書評の中の一番新しいものでも「闇のなかの黒い馬」が昭和四十五年の作で、その後には何も書いていないから、これらのものは謂わば旧刊案内にすぎない。しかし良い書物というものは古びることがない筈だから、ここに挙げた書物はおおむね良書として私が推薦し得るものばかりである。私はその美点を認めないで書評を書いたことは一度もなかった。      昭和五十年六月 [#地付き]福永武彦   この作品は昭和五十年八月新潮社より刊行された。